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VC vision
前編 後編
第16回 ゴッド・セイブ・ザ・ベンチャー  前編 可能性への投資
バイオ産業の技術開発は、先進各国とも国を挙げた取り組みが行われ、
国際競争も激しさを増している。
この新しい産業であるバイオを対象に、
とくに創薬バイオに軸足をおいたファンドを国内でいち早く立ち上げ、
日本のバイオベンチャーキャピタルの草分け的存在である
レクメド・ベンチャーキャピタルの牛田雅之代表取締役社長に、
バイオベンチャーを対象としたファンド事業の取り組みと、
その戦略について話をうかがった。

interviewer:森本紀行(ベンチャー座アドバイザー、HCアセットマネジメント代表取締役社長)
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日本はゲノム解読競争に貢献できていなかった

【森本】 まずは、レクメド・ベンチャーキャピタル設立の理念を、当時の業界や産業の状況を踏まえてお話いただけますか。
【牛田】 1号ファンドを組成したのは、2000年2月のことです。当時は、米国のバイオ産業が大変な活況の中にありました。その背景として、1990年代後半に、IT等の他分野の技術やサイエンスがバイオ研究に積極的に取り入れられ、人間の生命の設計図にあたるゲノムの解読競争が国際的に活発に行われておりました。そして、2000年、米国政府がヒトゲノムの解読が完了したという発表を、当時のクリントン米大統領も同席してホワイトハウスで行いました。これは6カ国による共同プロジェクトだったのですが、世界中で大きなニュースとして取り上げられました。ただ、ゲノムが解読できたといっても、それは、ヒトの生命の設計図が、まだおぼろげに見えてきたという段階にすぎないもので、実際には、その設計図が意味するところを明確にしないと、応用技術の開発への進展はできないのです。
【森本】 しかし、このニュースをきっかけに、バイオベンチャーの株がナスダックで暴騰をし、バイオバブルが発生していったわけですね。
【牛田】 はい。しかし一方で、そのころの日本のバイオ産業は、残念ながら、このゲノムの解読競争に必ずしも貢献できてはいませんでした。ゲノム解読を支えていた企業は、ほとんどが米国企業で占められていて、日本のバイオ産業は、質、量ともに、かなり遅れていたといっていいと思います。そこで、1999年くらいから、これではいけないと、官民を挙げた日本のバイオ産業の育成の動きが活発になります。たとえば、大学などの研究機関で進められるバイオ研究の成果を、起業化、事業化させていくシステムとして、各大学にTLOという技術移転機関を作りました。こうした仕組みができれば、それをしっかり機能させるための資金を供給する体制も必要になってきます。政府の助成金だけでは、当然、限界がありますので、そこで、民間のベンチャーキャピタルの活用が模索されることになりました。
【森本】 証券会社などの金融セクターが中心となり、バイオベンチャーに資金を提供するファンド展開のプランが進められるようになりました。
【牛田】 そこで、本社のレクメドでも、野村證券の発案により創薬分野のバイオに軸足をおいたベンチャーファンドであるLFVF1号(ライフサイエンス投資事業組合)を立ち上げることになったわけです。このファンドは、我々とmblVCという医学生物学研究所を母体にするベンチャーキャピタルとが共同ゼネラルパートナーになって、目利き、ファンドレイズ、ファンド運用を担っています。
【森本】 2000年を過ぎると、日本でもバイオブームが起きます。
【牛田】 ちょうどITバブルがはじけた直後ということもあって、一挙にバイオへの投資熱が高まりました。私たちの1号ファンドも、バイオにまったく関係のない事業会社が出資するという現象がありました。また、これからバイオ分野に投資しようとするベンチャーキャピタルが、我々の投資案件を見てバイオを勉強をする意味で出資する例も多くありました。1号ファンドは、総額34億円となりました。


アーリー段階のファイナンスが主要な任務

【森本】 その時期に、他のベンチャーキャピタルでバイオファンドを立ち上げたところはありましたか。
【牛田】 バイオフロンティアパートナーズが、我々とほぼ同時期にファンドを立ち上げています。それから、やはり2000年から2001年にかけてバイオテックヘルスケアパートナーズもファンドを組成しています。私たちを含めた、この3社が、バイオベンチャーキャピタルの草分け的な存在になります。ジャフコや日本アジア投資などの大手がバイオファンドを組成するのは、2003年、2004年ごろになってからですので、我々独立系3社が先陣を切ってこのバイオの世界に参入したといっていいと思います。
【森本】 ベンチャーキャピタルとしてのポリシーをどのようなところにおいていますか。
【牛田】 日本の場合は、大学や研究機関のバイオ研究の成果が研究者レベルにとどまって、埋もれている技術が非常に多いのです。大学とビジネスの世界が非常に疎遠だったためですが、世のため人のためになる研究や技術があるにもかかわらず、事業化する仕組みや資金の出し手がないために、新しい薬を開発する可能性が限られるという問題がありました。我々には、この研究者と投資家や大手ベンチャーキャピタルとの橋渡しの役割を果たそうという基本理念があります。有望なベンチャー企業の事業がある程度成果が出てきて、大手のベンチャーキャピタルが参入できる段階になるまでを繋ぐために、アーリー段階のファイナンスを実行することが我々の主要な任務になります。
【森本】 創業時のシードラウンドからシリーズAくらいまでにあたりますね。
【牛田】 はい。シリーズB以降、つまり、時価総額が10億〜20億円くらいになった段階で、他のベンチャーキャピタルにリードをお任せするスタイルが主流になります。しかし、ファンドの10年間の運用期間を、日本の未成熟なバイオベンチャーのアーリーステージに投資するだけでは、投資家を満足させるパフォーマンスは得られませんので、米国である程度開発が進んでいるバイオベンチャーにコ・インベスターとして参加する投資活動も行っています。1号ファンドでは、日米の投資比率は、だいたい、半々になっています。
【森本】 米国でIPOが見えているベンチャー企業への投資は、完全なクローズドなクラブ社会になっています。日本から参加させてくださいといってもなかなか入れるものではありません。どういうネットワークを使っていらっしゃるのですか。
【牛田】 本体のレクメドを創業した松本正が、協和発酵時代から培ってきた米国のバイオベンチャーネットワークを通じて投資の勧誘が来るケースが多いです。およそ日本人では入れない大きなディールにも、日本の投資家として唯一我々が入ったという事例がいくつもあります。
創薬の専門家がファンド競争力の源泉

【森本】 このバイオファンドの草創期の3社にそれぞれ特徴的な違いはあるのですか。
【牛田】 創始者が製薬会社出身なのは我々だけですね。創薬ベンチャーの場合は、その開発する医薬候補品を気に入ってくれた製薬メーカーと提携して売上が立ちIPOできる、というスタイルがほとんどです。ですから、開発品が製薬会社に売れるモノかどうかが最大のポイントになります。製薬会社の目でベンチャー企業を見ることが大事になります。どんなに優れたモノ・技術でも、製薬会社のニーズに合わなければ、我々投資家もEXITできないからです。製薬会社とのパイプを持ち、松本という創薬の専門家が控えていることは、我々のファンドの競争力の源泉になっています。
【森本】 2号ファンドでは、1号とは違った位置づけがあるのでしょうか。
【牛田】 2号ファンドは2004年の2月に立ち上げています。これは、1号ファンドと同じコンセプト、同じポリシーで取り組んでいますが、ただ、資金を集める環境が1号ファンド当時と大きく変わってきていたので、投資家の構成に変化が出てきています。一つは、当初バイオに関しては手探りでしかなかった各ベンチャーキャピタルもバイオ分野の投資実績を十分に積み上げてきていることです。ベンチャーキャピタルによっては、理学博士や薬学博士などの専門家をキャピタリストとして採用して、自らバイオファンドを組成できる体制が整備されてきていました。ですから、1号ファンドのように、他のベンチャーキャピタルが我々のファンドに出資して、バイオ投資を学んでいこうという動きはかなり薄れてきていました。一方で、エンジェル税制が導入されたこともあって、個人投資家というセクターがかなり台頭してきていました。
【森本】 個人投資家のベンチャー投資意欲は、高まってきているといっていいでしょうね。
【牛田】 幸い、1号ファンドにおけるハンズオンの実績が認められていて、2号ファンドは経済産業省から認定ハンズオン型ファンドのお墨付きをいただいています。そういうこともあって、2号ファンドでは、8人の個人投資家から出資いただくという新しい展開が出てきました。こうした状況で、2号ファンドは12.2億円と1号に比べてだいぶ小さいですが、何とかスタートしました。また、この2号ファンドは、中小企業基盤整備機構から50%の出資をしていただいています。国のお金が入っている関係で、投資先が日本国内のベンチャーに限定されたファンドであることも、1号と異なる点です。





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