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Front Interview
第1話 第2話
第3話 第4話
Vol.014 ベスタクス株式会社 社主 椎野秀聰第1話 ワイルド・ワン
コラム(1) パーソナル・データ(1)
東大一直線

 私の家は親も兄も東大に入学していましたので、私も東大へ行くのが当然だという家庭環境でした。しかし、残念ながら私はできが良いほうではありませんでした。中学1年生の時に数学の先生が「教科書で先に進める者はどんどん行って良いぞ。教科書を終わった人は遊んでいても良いから」と言ったものですから、その通りにしてしまったのです。ところがその通りにして、しばらくぶりに数学の授業に出てみると、知らない記号が次々に出てくる。それで、勉強に熱中できなくなってしまったのです。しかし、当時はそれでも良いと思っていました。高校は都立の千歳高校に進学しましたが、同様に学校には真面目に通いませんでした。
  じつは高校時代まで私は英語の辞書を使ったことがありませんでした。それを聞いた同級生が「お前はどうやってここまでやってこれたんだ」と驚いて、わざわざ『斎藤英和辞典』を持ってきて私に譲ってくれたのです。その辞書は卒業まで1ページも開くことはありませんでしたが、今でも友情の証として私の宝物になっています。その友人というのが弁護士をしている三井拓秀君(現・三井法律事務所代表パートナー)です。


愚連隊と呼ばれて
 音楽は子供の頃から大好きでした。高校の時にはそれが高じてバンド活動に熱中しました。楽器はギター、ドラム、スチールギターと何でも演奏しました。バンドを始めるきっかけとなったのが一つ上の学年にいた岸部成雄さん(当時の東京インストルメンタルサークルのメンバー)の一言、「椎野、おまえ音楽をやれ」でした。
  ベンチャーズがはじめて来日した時、「絶対に見に行け」と言ってくれたのも岸部さんです。コンサートの日は授業があったのですが、学校を抜け出しました。実際にベンチャーズの演奏を目の当たりにしたときは驚いたというより、「なるほどこういうふうに演奏しているのか」と納得したことを覚えています。というのも、来日前から見よう見まねで同じように演奏していましたから。
  当時は「しゃぼん玉ホリデー」というテレビ番組があり、そこにバックバンドとして出演したこともあります。ギャラをもらってやっていたのですが、それが学校にわかってしまって、校長に呼び出され「お前は愚連隊か」と退学させられそうになりました。

日本ロックの黎明期

 私が高校に通っていた頃は、いろいろな大学の学生たちがバンドを作って、月に一回有楽町のビデオホールでコンサートを開いていました。東京インストルメンタルサークル(T.I.C.)と呼ばれ、成毛滋(ギタリスト)さんが率いる慶應義塾大学のフィンガーズや、成城大学のマックスフォー、立教大学のビートニクスといったグループが有名でした。ビートニクスのバンドボーイが細野晴臣さんだったり、三笠宮親王が学習院大学のパニックメンというグループでサイドギターを弾いていらっしゃいました。コンサートの終わり頃にはスパイダースも出演していました。
  音楽で心が震えるような感動を経験したのもこの頃です。ミッドナイトジャズコンサートが同じく有楽町のビデオホールであったのですが、そこにバーニー・ケッセル(ジャズギタリスト)が登場して「ミスティ」を弾きだしたときです。夜中の2時過ぎで私は眠くて仕方がなかったのですが、ギターの音色を聞いた瞬間「これはすごい」と、いっぺんで目が覚めてしまいました。
  音楽漬けの高校生活でしたから、当然のように東京大学の入試には失敗しました。それで駿台予備学校に 通うことになったのです。予備校で入ったクラスが上位のクラスだったものですから親は安心していました。しかし私は真面目に予備校に通っていたわけではなく、御茶ノ水の駅まで行くと「田園」などの名曲喫茶店に直行していました。





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