4年勤めたヤマハを辞めることになった直接の原因は、直属の上司との意見の相違があったからです。私が「辞めたい」ともらすようになると、営業を統括していた許斐剛さん(現・株式会社アクセス取締役)から呼ばれ説得されました。許斐さんは「席はどこに置いてもかまいません、出社したくなったら来るということでもかまいませんから辞めないでください」と当時20歳そこそこの私に言ってくれたのです。これは男冥利に尽きる言葉でした。しかしさすがに一介のサラリーマンである自分には、そんなことはできないこともわかっていました。紆余曲折があって1971年、浜松にあったヤマハの総務に辞職願を出したのです。
許斐さんというのは慶應義塾大学出身の金時計組であり、川上源一さんが社長になって最初に仲人を勤めた人でもあります。スケールの大きな、本物のサラリーマンといえる許斐さんに若い頃に出会えたというのは、私の人生にとっても貴重な体験でした。
許斐さんとはその後も種々接点がありました。当時のヤマハは日本の音楽ビジネスの85%のシェアを占めている圧倒的な存在でしたから、ヤマハを退社してから音楽ビジネスに関わるに際しては、常に挨拶にうかがいました。許斐さんは「あなたのやっていることなら、ヤマハも応援しますよ」とまで言ってもらえました。
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