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Front Interview
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Vol.014 ベスタクス株式会社 社主 椎野秀聰第2話 原点から、源流から
コラム(2) パーソナル・データ(2)
早く一人前になりたい
 ヤマハではとても恵まれた環境で仕事ができました。入社早々から運転手がついていたほどでしたから。じつに自由にのびのびとできました。「学販」といって全国の学校にヤマハの笛を販売する仕事を担当したことがありましたが、その成績が良かったものですから社長から表彰されたこともありました。
  当時ヤマハの社長、川上源一さんはとてもユニークな人物でした。川上社長が「歌心運動」を始めようと全社に号令をかけたのです。ところが社員は何を具体的にどこから手をつけていいかわからないのです。そこで私はその予算でもって、若手ミュージシャンの育成を始めました。当時にすればとんでもない風体や髪型をした若者を束ねていたというわけです。
  いくつかの仕事が上手くいくと大学浪人時代に失った自信も少しずつ取り戻していきました。心の中に「自分にも何かできるかもしれない」という気持ちが芽生え始めたのです。ともかく、何事にも一生懸命に取り組めたのは、結局自分自身がドロップアウトしたという引け目があったからです。ドロップアウトはしたが家族や兄弟には迷惑はかけられないという思いがあり、早く一人前になりたいという気持ちがひじょうに強かったのです。

虚業と実業の狭間で
 ヤマハではほかにも様々な事業を担当しましたが、常に時代の最先端にいたという気がします。ビートルズブームも下火になった1969年、米国でウッドストック・フェスティバルが開催されました。この記録映画を日本に初めて持ってきて試写会を開きました。1970年代初めにはブリティッシュロックが流行りそうだというのでロンドンに飛んで、その熱気に触れたりもしました。また60年代から70年代には日本でもフォークブームに火がつきましたが、当時のヤマハはフォークギターを作っていませんでした。早速、フォークギターの販売を具申しました。このギターがフォークブームでまるで羽が生えたかのように売れていきました。
  こうした体験を通して現場が大切だという思いを強く抱くようになりました。たとえば製造や販売の現場には様々な情報や真実が転がっています。しかし本社にいてはそれらを知り得ないわけです。現場と本社の思いはすれ違いばかり。私の仕事は現場の声をいかに本社に伝えるかと言うことだと思いましたし、そこからしか仕事は始まらなかったのです。
  その後はレコードの原盤制作なども手がけました。しかし次第にソフト制作がむなしい作業に思えてきました。ソフト制作をしていると音楽業界の裏側をずいぶんと目にすることになります。裏側を知れば知るほどソフト制作が虚業に思えて仕方がなくなっていったのです。当時、海上自衛隊のブラスバンドに楽器を売る仕事を担当していましたが、こちらの方がずっと実業だなと思っていました。この頃からです、「楽器を作ってみたい」という思いを抱くようになったのは。

ヤマハを去る

 4年勤めたヤマハを辞めることになった直接の原因は、直属の上司との意見の相違があったからです。私が「辞めたい」ともらすようになると、営業を統括していた許斐剛さん(現・株式会社アクセス取締役)から呼ばれ説得されました。許斐さんは「席はどこに置いてもかまいません、出社したくなったら来るということでもかまいませんから辞めないでください」と当時20歳そこそこの私に言ってくれたのです。これは男冥利に尽きる言葉でした。しかしさすがに一介のサラリーマンである自分には、そんなことはできないこともわかっていました。紆余曲折があって1971年、浜松にあったヤマハの総務に辞職願を出したのです。
  許斐さんというのは慶應義塾大学出身の金時計組であり、川上源一さんが社長になって最初に仲人を勤めた人でもあります。スケールの大きな、本物のサラリーマンといえる許斐さんに若い頃に出会えたというのは、私の人生にとっても貴重な体験でした。
  許斐さんとはその後も種々接点がありました。当時のヤマハは日本の音楽ビジネスの85%のシェアを占めている圧倒的な存在でしたから、ヤマハを退社してから音楽ビジネスに関わるに際しては、常に挨拶にうかがいました。許斐さんは「あなたのやっていることなら、ヤマハも応援しますよ」とまで言ってもらえました。





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