起業家・ベンチャーキャピタル・投資家を繋ぐコミュニティ・マガジン

Front Interview
第1話 第2話
第3話 第4話
Vol.010 株式会社ネットエイジグループ 代表取締役CEO / ネットエイジキャピタルパートナーズ株式会社 代表取締役社長  小池聡第3話 波乱の船出
コラム(3) パーソナル・データ(3)
情報ハイウエイに時めく
 iSi電通アメリカ時代はワシントンにもよく通っていて、「情報ハイウェイ構想」を推進する民主党のゴア副大統領の事務所にも出入りしていました。また「情報ハイウェイ構想」はライバルである共和党にも推進者がおり、ブッシュ政権で院内総務となるビル・フリスト氏(William Harrison "Bill" Frist)などとも知り合いになりました。そんな関係から2001年、大統領に就任したブッシュ氏の就任式や公式晩餐会にも招待されました。 インターネットというものは元々がARPANET(ARPA:Advanced Research Projects Agency)と呼ばれた米国の軍事ネットワークで、米国国防総省が保守運営を行っていたものです。しかしソ連との冷戦も終わり国防費が削減される中、国防総省ではこのネットを維持することが大きな負担になり、民間に開放することを決断したのです。GEの幹部から「インターネットが1994年春から商用化される」という情報が僕のところにもたらされたのは1993年春のことでした。僕はその話を聞いてすぐに「これは絶対にビジネスになる」と考え、会社の中にプロジェクトを作ったのです。
  当時はインターネット自体それほど認知度がありませんでしたから、まわりの日系企業の人たちに向けてインターネットとはどういうものかという啓蒙をしたり、こういうことができますという提案をしたりすることから始めました。

ベンチャーの潮流を肌で感じる
 米国では政府系の機関がホームページを立ち上げたり、メディアがホームページを作って、紙にかわる新しいメディアとしてのありかたを模索し始めていた頃です。僕の最初のお客様になってくれたのは日本国総領事館で、そのホームページの立ち上げをお手伝いしました。次のお客様が日本経済新聞の米国法人である日経アメリカ社で現在の日経ネットの原型を提案して作りました。僕の最初の仕事は提案型のビジネスデベロップメントが主でしたが、米国では次第にベンチャーブームが起こってくるようになってきました。ニューヨークでいえばソーホーのあたり、シリコンアレーといわれていた地域で次々とベンチャーが起業されてきました。米国西部ではシリコンバレーで起業が盛んになりました。
  1995年に、GEとNetscapeの合弁会社を作るプロジェクトでシリコンバレーに飛び込み、ネット関係の人とも数多く知り合いました。また僕自身は米国にいる以上、日本人ではなく、現地の米国人たちと付き合おうという姿勢を貫いていましたので、そうした友人たちの中からも起業する人が出てきました。さらには、ナスダックに上場する人まで出てきました。こうした潮流を間近に見ていたものですから、かなり早い段階から日本の本社には「ネットビジネスは本格的に取り組む必要がある」と何度も提案はしていたのです。しかし本社からの返事は、あまり芳しいものではありませんでした。




HC Asset Management Co.,Ltd