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Front Interview
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Vol.010 株式会社ネットエイジグループ 代表取締役CEO / ネットエイジキャピタルパートナーズ株式会社 代表取締役社長  小池聡第3話 波乱の船出
コラム(3) パーソナル・データ(3)
ネットイヤー誕生
 そんなある日、iSiDの社長がニューヨークにやってきた折りに、米国のネットビジネスの現状を話し、その現場を案内しました。そして、その場で「ネット企業に投資インキュベーションをする会社を作りたい」と社長に直談判をしたのです。答えは「やってみろ」でした。こうしてできたのがネットイヤーグループInc.です。それまでiSi電通アメリカの事業部でやっていたネット関連の投資やコンサルティングという事業を、一つの会社として独立させ、本格的なビジネスとして取り組むことができるようになったのです。そして、僕はこの会社の社長をやることになりました。
  会社を作るにあたって担当役員に出した要望は「駐在員は必要ない」というものでした。通例、日本から駐在員が来ても、ほとんどは3年くらいで帰国してしまいます。仕事を覚えた頃に抜けられるのは痛手ですしコストがバカにならないので、社員は優秀な人材を米国で雇用したいと思っていたのです。もう一つお願いしたことは「僕自身この会社にコミットしたいので、ずっと米国にいたい。できればこの会社に転籍したい」ということでした。
  さすがに転籍の許可は降りませんでしたが、人材採用については僕の希望を聞いてもらえました。僕は、大手のコンサルタント会社にいた友人などに声をかけるなどして陣容を整え、本格的に事業を始めました。

日本人初のMBO
 1998年、ネットイヤーグループInc.に転機が訪れました。日本で電通グループとしてiSiDの上場方針が決まったことです。上場準備室ができ上場審査のための事業の見直しが始まりました。上場のためにはリスクをなるべく排除し、本業を中心とした戦略的事業に注力することが必要でした。その当時は今と違いインターネットのビジネスとしての戦略性は本社側では認識されておらず、ネットイヤーグループInc.というのは、海外という本社から見えにくい環境のなかでインターネットというリスクのある分野に投資を行う会社でしたから、見直しの対象になるのも予測はできました。早速、本社から担当部長が私のところにやってきてネットイヤーグループInc.の事業凍結を申し渡されました。
  しかし、ネットイヤーグループInc.はみずから口説き落として減棒を承知の上で参画してくれた現地採用の社員がほとんどで、僕だけ出向社長として元の鞘に戻りはしごを外すわけにはいきません。また、インターネットの黎明期からいち早くビジネスとしての将来性を見出し取り組んでいた僕はこの事業への思い入れとともに成功への確信がありました。考え抜いた末に、覚悟を決めて「ネットイヤーグループInc.を僕に売ってほしい」と本社に提案したのです。この時の本社からの返事は何と「了承する」というものでした。
  しかし、それからが大変でした。会社から相当の資本金を出資してもらい事業をしていたわけですし、事業価値もそれなりに上がっていたため、譲渡に際しては億単位の金額が必要でした。
  個人ではどうにもならない金額でした。お金集めのために米国のベンチャーキャピタルを片っ端から回りました。かなり苦労しましたが米国のインターネット業界では少しは名前が知られる存在だったからでしょう、資金を出そうと言ってくれるところが現れました。僕自身も退職金をつぎ込んだり、借金をしたりして、必要な資金をなんとかかき集めました。こうして僕は会社を買収できたのです。この経緯は日本人では初めての海外現法のMBOということで各メディアに取り上げられ話題にもなりました。
(12月27日更新 第4話「高き、清き、志を」へつづく)  



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