起業家・ベンチャーキャピタル・投資家を繋ぐコミュニティ・マガジン

Front Interview
第1話 第2話
第3話 第4話
Vol.015 早稲田大学ビジネススクール教授 商学博士 松田修一第2話 若き血潮の深化
コラム(2) パーソナル・データ(2)
経済専門の検事を目指す
 私は会計の知識をさらに深めようと大学院に進みました。世間では新日鐵(当時は八幡製鐵)の政治献金が裁判で争われ話題になっていた頃です。その裁判とは新日鐵の株主が、「新日鐵が自民党に行った政治献金」を違法だと訴えたものでした。商法学者の通説は株主の側に立ち「法令違反である」と声を上げました。さらに「法令違反なのだから損害賠償できる。損害賠償は債権なので貸借対照表に載せろ」とまで言いました。
  私は会計を学ぶ者として政治献金について考えました。どんな帳簿を見ても「政治献金」などと書いてあるわけがない。支出しているとすれば資産か費用のどこかに紛れ込ませているはずです。しかし政治献金を実際に帳簿から見つけたとき私にできるのは、「政治献金を将来の収益を生む資産と考えるか、それとも費用と考えるか」ということ。または「損益計算書に載せるとしたら勘定科目を何にするか」ということだけです。会計士は法律判断をしてはならないというのが監査のルールでしたから、法令違反だと声を上げることもできません。「ああ! 会計学者には政治や経済を正すことはできないのだ」と愕然としました。
  そんなこともあり法学部の法曹を目指す講座を受け始めたのです。私は経済専門の検事になろうと決意しました。これが商学部の博士課程の学生だった26歳のことです。3年間法曹を目指して頑張ったのですが司法試験には合格できませんでした。周りには「もう1年勉強すれば合格できる」と励ましてくれる人もいましたが、検事の夢はキッパリと諦めました。

人生について語り明かす

 私が結婚したのはちょうど司法試験を目指していた頃です。新婚生活は4畳半と3畳のアパートで始めました。高度成長で日本が一番輝いていた時代で、私の部屋には毎日のように大学の仲間や後輩たちが押しかけてきました。狭い部屋で膝を抱え「人生とは何だ」など口角泡を飛ばす議論をしていたのです。学生は元気ですし、未来は明るかった。皆、人生がおもしろくてしょうがなかったのです。しかし妻は大変だったでしょう。毎回彼らに食事を出してくれたのですから。このとき妻がよく作ってくれたのが「おでん」でした。妻が数えていたらしいのですが、当時は、わずか半年の間に250人も私の部屋に来て飲み食いそしたそうです。2人の貯金はゼロになりました。
 1973年、博士課程を修了し私はアルバイトから会計事務所へ正式に就職することにしました。世間は第1次オイルショックで騒然としている頃です。私自身は「監査法人とはどんな所だろう」と観察するつもりで監査法人サンワ事務所(現監査法人トーマツ)を訪ねたのですが、勤務していた大学の先輩から「いつから来るのだ」となかば強引に誘われて入所を決意しました。当時は、石油価格の暴騰で企業は苦境に陥り、サンワ事務所には調査依頼の仕事がそれこそ山のように来ていたのですね。とにかく人手が足りなかった。
 もちろん私がサンワを選んだ理由は、誘われたからだけではありません。公認会計士にとっては大手監査法人に入り大企業の監査を手がけるのがステータスです。しかし大企業の監査となると仕事量も膨大で、一人が会社の全体を見ることはできません。私は会計に関する知識はありますが、実務経験はほとんどありませんでしたので、まず小さくてもよいから会社のすべてが見られる仕事がしたかった。そうなると大手の監査法人ではなく、中堅クラスのサンワの方が自分の希望する仕事ができると思ったのです。





HC Asset Management Co.,Ltd