ある日、サンワで働いていた私に連絡がありました。
早稲田大学ビジネススクールで1年生の会計学を担当していた先生が病気になり、代役で教えに来てほしいということでした。私は時間の空いている土曜日に講義をすることにしたのです。最初の講義は通常は休講の土曜の午後でわずか5人しか学生がいませんでしたが、翌週には50人全員が出席しました。25年前、ベンチャーという言葉もない時代に「ベンチャーの成長と倒産」というテーマでした。学生は会社員が主でしたから、後期の講義では教材として学生が勤務している会社の有価証券報告書を使いました。自分の会社の有価証券報告書を初めて見る人も多く、講義を通して自分の会社の姿を知ることができたのですね。全員出席は珍しいと言われました。
後期の講義を終えると、先輩の先生方から「教員として来ないか」と強く誘われました。当時はサンワ事務所の中で10人ほどのチームを率いて仕事をしていましたので、チームに対する責任もあり大変に迷いました。しかし「私が今あるのは恩師や先輩の助けがあったからこそ。ここで恩返しをするのもよいだろう」と大学で教えることを決断したのです。これが1986年のことでした。研究生活を始めても、私の興味の対象は企業であり日本企業であり続けました。伸びる会社とはどういう会社なのか調べてみようと「企業経営研究会」を設立したのもこの現れです。
1990年にボストン大学に客員研究員として留学する機会があり、現地である調査を行いました。米国に進出している代表的な日本企業の現状を調べるものだったのですが、アンケート結果を見て驚きました。回答をもらった44社のうち黒字を出している会社はわずか1割。他は全部赤字で、ある会社などは進出以来赤字を続けているという状態でした。つぎ込むお金が日本にあるうちは当面は何とかなるでしょうが、それにも限度があります。私は、ドメステックな日本企業は海外では通用しないと、その時実感しました。
(5月23日更新 第4話「流れる星のごとく
」へつづく)
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