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Front Interview
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Vol.026 法政大学名誉教授 法政大学学事顧問 清成忠男第1話 気概
コラム(1)
自分たちで国を支える
 我々の世代は第2次大戦中に小学生時代を過ごしたので、軍国主義教育を受け、自分から何か行動するという自由はありませんでした。戦後、米軍が入ってきて様相が一変し、昨日まで生徒を呼び捨てにしていた教員が、急に猫なで声で、「○○くん」などと呼び始めました。そういう大人の変節を嫌というほど見ていましたね。そのうち、予科練に行った上級生が中学に戻ってくると、彼らは戦争で人生が狂ってしまったことから、その鬱憤を晴らすために、下級生をやたらといじめるのです。そういう混沌とした状況の中で教育を受けたので、既存の権威に対して疑問を感じ、反発を感じるようになりました。
 戦争中、みんなが偉人と信じて疑わなかった東条英機が敗戦後、米軍が逮捕に来たら、慌てて拳銃で自殺を図るという事件がありました。国民に申し訳ないといって切腹した陸軍大臣もいたくらいなのに、本当に責任を感じているなら、何故もっと早く死ななかったのかと思いましたね。
 そういう筋をきっちり通した人間と、そうでない人間を見てきているので、昭和一桁世代というのは、自分たちで国を支えようという気概があったのです。だから、高度成長期に会社にどっぷりはまり、ひたすら頑張っていました。役人だって、今と違って、天下国家を論じたものです。

国民金融公庫へ
 1956年に東京大学の経済学部を卒業して、そのまま大学院に進もうと思っていました。しかし、家庭の事情で急に進学できなくなりました。高度成長以前ですから、みんな貧しい時代で、ひどい就職難でした。よく就職氷河期といいますが、そんなものではなく、もっと厳しかった。高校の同級生が、早稲田の政経を卒業したけれども就職できず、自分で零細企業を始めたくらいですから、職につけない人が溢れていました。
 そういう時代的な背景があって、とにかくどこかに潜り込まないと食べていけないわけです。大学の先生に相談したら、「何年か勤めて,また帰って来なさい」といわれました。でも、どこも就職試験は終わっていて、就職課に行ったら、国民金融公庫(現・国民生活金融公庫)と安田信託、明治製糖、日本信託の4社だけ公募がありました。みんなに相談した結果,日本信託以外の3社に願書を出しました。安田信託へ面接に行くと、人事課長が出てきて、いきなり「君を採用する」というのです。その年は一次募集で東大からいい生徒を採れなかったらしく、課長が人事担当重役から怒られたところに私が現れたので、即決となったようです。
 国民金融公庫の面接では、ほかの人たちは30分くらいかかっているのに、私は2分くらいで、「もういいですよ」といわれました。帰ってみると、すでに採用通知の電報が届いていました。次の日には安田信託からも採用の通知が来ました。大学の先生に相談に行ったら、「あまり忙しくない会社へ行って勉強しておきなさい」とアドバイスを受けたので、国民金融公庫に行くことにしました。




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