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Vol.008 エル・ピー・エル日本証券株式会社 代表取締役社長 米田 隆第1話 独立を夢から目標へ
コラム(1) パーソナル・データ(1)
昨日の自分と競争する
 私は中学生の頃、病気で1年ほど入院をして、同期から1学年遅れてしまいました。高校に入学する時に、ちょうど父親がイギリスに赴任していたこともあり、「イギリスの空気を吸ってみないか。いい経験になるぞ」と勧められて10カ月ほどロンドンに住むことになりました。それでまた同期からさらに1年遅れることになってしまったのです。
  日本に帰ってきて高校に入学すると、小学校時代の友人たちは大学受験の真っ最中というわけです。当時は同年代の人口も多く受験競争も厳しかった。それに人生で一番重要な競争は同期との競争だという雰囲気もありました。ですから10代の時に2年も遅れたという事実とその挫折感は非常に重かったですね。その重みやプレッシャーを感じたとき、「他人と競争するのはやめよう」と思うようにしたわけです。それでスッと気持ちが落ち着きました。
  受験勉強も他人と競争するのではなく、自分が納得する方法でやるようにしました。例えば英語ならサマセット・モームの『人間の絆』を原書で読んで、それを受験勉強がわりにしていました。他人からは好き勝手にやっているように見えたと思います。この「昨日の自分と競争する」という意識は、社会に出た今もずっと持ち続けています。

将来、海外に留学できる会社へ
 大学は早稲田大学に進学しました。1980年、私が大学4年生の時、日米学生会議が米国で開かれるということを知りました。この会議は宮沢喜一元首相やキッシンジャー元国務長官も参加したこともある歴史のある会議で、ぜひとも参加したかった。そこで早稲田大学の選抜試験を受けたところ、幸い合格することができ、米国に1カ月ほど行くことになりました。その時の私のテーマが「エネルギー」で、その問題についてさまざまな参加者と討論したわけです。この体験は大変おもしろいものでした。討論だけでなく、おもしろい人物もたくさんいるわけです。この1カ月の米国生活を経験して、将来は米国に留学したいと思うようになってました。
  日本に帰ってから本格的な就職活動を始めたわけですが、どの企業を受けるか、その条件にしたのが「将来、海外に留学できる会社」でした。いくつかの会社から内定はいただきましたが、その中から日本興業銀行に入社を決めたのも、実は興銀は社員の10%が留学するということ。それが入社の決め手になったのです。

ダイナミックなビジネスの芽
 興銀に入って最初の仕事は国際資金部での為替ディーリングでした。この仕事はあまり自分に向いているとは思えませんでした。それに頭の中は早く留学がしたいと、そのことでいっぱいでした。さすがに入行1年目で留学試験は受けさせてもらえませんでしたが、上司にも積極的にアピールをし、2年目には社内の留学試験を受け、合格することができました。
  留学した私を待っていたのは、とても沈鬱な雰囲気の米国でした。当時の米国は経済が低迷し、有名企業のホワイトカラーでさえ次々とリストラされていくという時代でした。誰も定年までの保証が得られないのです。この時代に始まったリストラの流れというものが、のちにビジネスマンのフリーエージェント化につながっていくわけです。
  しかし、そんな米国にも、新しいダイナミックなビジネスの芽というものは見え始めていました。たとえばのちに大きな話題になったKKR(コールバーグ・クラビス・ロバーツ)による総額250億ドルにもなろうかという史上最大のLBO(レバレッジド・バイアウト)のように、その動きの兆しは見え始めていたのです。



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