起業家・ベンチャーキャピタル・投資家を繋ぐコミュニティ・マガジン

Front Interview
第1話 第2話
第3話 第4話
Vol.008 エル・ピー・エル日本証券株式会社 代表取締役社長 米田 隆第2話 先見性と持続力
コラム(2) パーソナル・データ(2)
起業家臨界期は35歳
 私が独立をしたのは35歳の時でした。なぜその年齢であったのかといいますと、当時はまだ独身でしたし、もし起業家としての才能がなくても、その歳ならやり直せるだろうという思いがあったからです。起業というものはそれまでのキャリアが通用しませんし、雑巾がけを一からやる覚悟もいります。そうしたことに精神的に耐えられる最後の歳だろうとも思っていたからです。
  もちろんすんなりと興銀を辞められたわけではありません。人事のローテーションもありましたから。独立を決めた年というのは、ちょうど入社10年目にあたり、2週間のサバティカルを貰うことができました。それを使って米国を回り、ポテンシャルパートナーに挨拶をして回りました。そして、実際に興銀を退職したのは1991年12月のことでした。
  実は会社を設立したのも興銀に勤めていた1991年7月なのです。そして、ビジネスのための経費を落とすには会社を設立していなければならなかったからです。そんな理由もあって、興銀人事部に正式に了解をいただいてから、両親を取締役にして会社を設立しました。興銀には通算で11年間在籍したことになります。留学もさせていただいたし、人事で無理も聞いていただいた。いろいろな意味でお世話になったので、興銀には今も感謝しています。

優良取引先と基幹業務の存在
 興銀にはいろいろとわがままも聞いてもらいましたから、まさに足を向けて寝られないという気持ちです。それと私自身に課すルールとして、当たり前といえば当たり前のことですが、独立してからも興銀のお客様は持って行かないということだけは強く肝に銘じました。
 バブルが崩壊したあと、銀行業界は大きな打撃を受けました。長信銀の中でも長銀(日本長期信用銀行)と日債銀(日本債券信用銀行)は倒産してしまうわけです。そんな中、興銀は何とか生き残ることができました。これはなぜかというと取引先の質が違っていたからですね。取引先に優良な企業が多かったのです。もう一つは融資以外に社債などの受託銀行業務という固定収入を稼いでくれる基幹業務があったことも大きかったですね。それらで何とかもちこたえることができたわけです。
(10月18日更新 第3話「艱難、汝を玉にす」へつづく)  




HC Asset Management Co.,Ltd