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Vol.009 エス・アイ・ピー株式会社 取締役会長 齋藤 篤第1話 青年よ大志を抱け
コラム(1) パーソナル・データ(1)
野村證券はロスチャイルドを目指す
 大学を卒業して野村證券に入社したのはまったくの偶然でした。当時、北海道では大学を卒業しても、あまり良い就職先がありませんでした。道内なら公務員になるか教師になるか、民間企業に行くなら本州に行くしかないという状況でした。幸い私は公務員の上級試験に合格していましたから、その面接を受けようと東京に出ることになったのです。本来ならどこかの官庁にでも勤めていたというわけです。
  しかし、そうはならなかった。実は、北海道から東京の官庁の面接を受けるために上京しても交通費が出なかったのです。ところが民間企業の試験を受けるというなら交通費を出してもらえたのです。それで私も民間企業を受けて、東京への交通費を少しでも浮かそうと考えました。たまたま試験日の都合がよかったのが野村證券であったので、受験してみることにしたのです。
  野村證券の面接を受けた時、大学の事務官から「大学の先輩には挨拶をしておきたまえ」と言われました。それで挨拶に行ったのが、今原(禎治・現みらい証券名誉会長)さんだったというわけです。今原さんというのは、戦後にできた北大法文学部の第2期生であり、北大から野村證券に入った最初の人でした。
  当時、野村證券の社長だった奥村(綱雄)さんは、「野村證券はロスチャイルドのようなマーチャントバンクを目指すのだ」と盛んに言っていまして、今原さんからもそうした壮大な構想を聞かされました。さらに私が「他には公務員を受けています」と話したところ、「公務員など男子一生の仕事ではない」と強く説得されてしまったのです。北海道を出発する前は国家公務員になると考えていた私が、野村證券に入った背景には、そんな経緯があったのです。

昭和26年、投信法成立
 今原さんに強く勧められた野村証券入りでしたが、私が入社してどんな気持ちだったかというと、実は野村の仕事に大変戸惑いを覚えていたのです。私が最初に配属された部署の仕事は株式などの売買、いわゆるブローカー業務でした。仕事をしながらも「こうした仕事は自分には向かないのではないか」と思え、大変に悩みました。
  そんな気持ちでいたとき、昭和26(1951)年にできた投信法(投資信託及び投資法人に関する法律)によりその業務が株式を追う主要商品にせまろうとしていました。私は、「投信というのが日本でも本格的に始まることになった、これならおもしろそうだ」という思いから投信法の勉強をしてみようと考えたのです。当時はまだ入門書などありませんでしたから北大の恩師にお願いして、信託の分野では当時第一人者であった神奈川大学の四宮(和夫・元東京大学教授)教授をご紹介いただき会いに行きました。そこで四宮教授から専門書をお貸しいただき、その本を元にして投資信託というものについての勉強を始めたのです。勉強といっても、お借りした本をペラペラめくるという程度でしたが。そんなことをしているうちに、いつの間にか野村證券を辞めたいという気持ちは消え失せていました。
(11月8日更新 第2話「金融の潮流を変える」へつづく)  



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