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Front Interview
第1話 第2話
第3話 第4話
Vol.009 エス・アイ・ピー株式会社 取締役会長 齋藤 篤第2話 金融の潮流を変える
コラム(2) パーソナル・データ(2)
海外で投資信託を運用しよう
 野村證券に入社して10年目には本社連絡部に勤務していました。この当時の一番の思い出が、昭和40(1965)年、山一証券に対する日銀特融です。当時、証券恐慌の影響から投資信託は全て額面割れするという状態になっていまして、この対応に大変苦労したことを覚えています。
  その後、投資信託部に配属されました。投信部にいた頃にはOECD加盟国間の投資信託の自由化に対応して日本国内でもOECD24カ国からの投信を輸入して販売しようという声が上がりました。そのための業界ルールを作るという仕事にも参画しました。
  当時は野村證券自身が海外展開に積極的な時期で、投信を輸入するだけでなく現地法人を作り海外で投資信託を運用しようということになりました。そして私がそのための調査を行うことになったのです。その時知ったのが海外での「信託」の法的位置づけでした。まず信託制度の母国であるイギリスでは「信託法」があり、それに沿って投資信託が行われていました。イギリスの制度が導入された米国では、「投資会社法」という法律の枠組みがあり、投資信託を行う会社の行動を厳しく規制していました。一方「信託」という概念そのものがなかったヨーロッパ大陸の国々では、組合を作って持ち分を共有するという形で実質的な投資信託を行っていたのです。
  この時の調査では、各国のそうした実態を理解することができました。またこのプロジェクトでは、弁護士の松本啓二さんからも指導をいただき、米国にメリルリンチとの合弁である「ファンドアメリカ」を、ルクセンブルグにはソシエテ・ジェネラルとドイチェバンクなどと合弁で「ファンドヨーロッパ」を設立することができました。

JAFCO再生へ乗り込む
 ある日、野村證券で筆頭常務になっていた今原さんがJAFCO(ジャフコ・旧日本合同ファイナンス)に行くらしいという噂を耳にしました。JAFCOは、野村證券の社長だった北裏喜一郎さんが、日本の中小企業を育てて優良企業、上場企業にしていこうという構想のもと設立した会社です。日本生命や三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)も巻き込み、野村證券の起業部が企業を発掘する、JAFCOがその企業を公開・上場するまで支援するという役割分担でした。
  しかし実際のJAFCOはどうかというと、経営が今ひとつふるわなかったのが実態でした。今原さんにすれば、そのような会社に行かれるのは想定外のことだったと思います。
  私はその噂を聞いて早速挨拶に行ったのです。最初は本人から「冷やかしに来たのか」と叱られました。しかし私自身は時代が「金不足から金余り」へと変わりつつありましたし、今後は直接金融の時代だという確信がありましたから、「JAFCOのような金融機関が、これからの企業金融の主流になるはずだ」という持論を今原さんに話したわけです。今原さんは私の話を聞いて突然「お前も一緒に来い」と言い出したのです。そして当時会長であった北裏さん、社長の田淵(節也)さんを強引に説き伏せて、あれよあれよというまに私もJAFCOへ移籍することになってしまったのです。

本格的なベンチャーキャピタルを
 私がJAFCOへ移籍した1979年頃、日本にもベンチャーキャピタルを名乗る会社はすでにありました。しかしそのほとんどは銀行系で、それも銀行本体で株を持てないからという理由で設立されたもので、儲けなくてもよい、いわば副業という意識のところが多かったと思います。
  本格的なベンチャーキャピタルであるはずのJAFCOはどうかというと、銀行から資金を借り入れて、それを元に投資をしているという状態でした。利益を生むまでに時間がかかるのに、借りた資金の金利を払っているわけです。会社ですから期間利益を出さなければならないということで中小企業向けのリース事業を手がけていたのですが、利益を生むはずのこの事業がリース会計の計上方法を間違っていたがために、含み損を溜め込んでいるという状態だったのです。
  赤字の一掃をするためにはリース会計を正すだけで良かったのですが、それだけではJAFCOの根本的な立て直しにはなりません。本格的な利益を生み出す会社にするために何とかしなければならないと知恵を絞ることになったのです。




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