1987年、JAFCOは公開会社になりました。会社の建て直しがすめば私の仕事は終わり、これで野村證券に戻れるものだとばかり思っていました。しかしそうはいきませんでした。1987年という年は日本が貿易黒字を溜め込み、それが国際的な問題となった年でもありました。当時の竹下登総理はこの黒字を世界の国々に環流しようと決断したのです。その一環として経済同友会が設立したのが日本アセアン投資(現日本アジア投資・JAIC)でした。同友会ではこの会社を使って20億ドル分の黒字をアセアン諸国の企業へ直接金融方式で環流しようと考えたわけです。この会社の経営を頼まれたのが今原さんで、私もまた今原さんとともにJAICへ転籍することになったのです。
JAICでは、発展途上国にある会社への投資がメインの仕事になりました。この時に驚いたことがあります。あるマレーシア企業の財務諸表を見ると日本の中小企業など比べものにならない程しっかりと作られています。いぶかしく思い「これは本当の数字か」と聞くと、「失礼なことを言うな」という反応が返ってきたわけです。じつはマレーシアをはじめ旧英国植民地というのは、経営者が本国にいたまま会社の状態を把握できるように財務会計や監査が発達したらしいのです。
私はJAFCO時代に、企業には納税申告のための税務会計はあっても、財務会計がないということを嫌というほど思い知らされた経験があります。たとえば提出される数字と実際の数字が違うということが頻発するわけです。その対策として投資を申し込んできた企業に対して、公認会計士による簡易調査を導入せざるを得なくなりました。そしてこの簡易調査を行うようになってからは投資した企業で倒産するところが激減し、ファンドの成績は急上昇しました。当時設定したファンドは、今になってもJAFCO全体でもかなり上位の成績となっています。 |