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Front Interview
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Vol.011 セコム株式会社 取締役最高顧問 飯田亮第1話 事業家の血肉
コラム(1) パーソナル・データ(1)
我、実業家を志す

 生まれは東京、育ちは神奈川の葉山です。日本橋馬喰町に生を受け、親戚もみな東京に集まっていました。だから、田舎というものがないのです。葉山で育ったというのは、戦争で焼け出されて父の別荘があり疎開していたからです。昭和20年のことです。ですから中学は湘南中学(現・神奈川県立湘南高校)で、大学(学習院大学)に入学して東京に戻るまで、葉山で暮らしていました。
   湘南中学の入学試験の面接で、「志望は海軍士官です」と答えたところ、先生から「いやになるね。海軍士官や陸軍士官ばかりで。たまには実業家という子はいないのかね」と言われました。そのときから、頭の片隅に“実業家”という言葉がしっかりとこびりついて、「将来は実業家になりたいな」「実業家になるんだろうな」と考えていました。
  しかし自分が憧れる実業家像、あるいはモデルになる実業家というものが具体的にあったかというとそうでもなかったのです。当時は戦争を挟んで価値観が大転換してしまった時代です。財閥解体などもあり、事業家としてあこがれとなるべき人々が表舞台から消えてしまっていました。それに、戦後次々と現れた企業家も、それほど頭角を現してはいなかったのです。なので実業家といって思い浮かぶのは、ずっと前の世代の人たちで、たとえば岩崎弥太郎とか安田善次郎といったような人たちでした。


ほんとうに自分が求める物を
 実業家になりたいという夢を抱いてはいても、当時、そのために何かに挑戦したという記憶はありません。事業についても同じで、ましてや子供心にも何かをしたいという具体的な考えはありませんでした。
  唯一考えたといえるのがアイスクリーム屋でした。別にアイスクリームの製造・販売という事業に将来性があると考えていたわけではありません。終戦直後というのはとてもひもじく、ましてや砂糖もミルクもない時代ですから、甘い物にとても飢えていました。甘くて美味しい物をいつも食べたいと思っていました。アイスクリーム屋をやれば好きなだけアイスクリームが食べられるだろうと、そんな子供じみた考えですよ。
  事業とは本来"自分の欲しい物"を手がけるべきものです。「こういう物があったらいいな」、「こんな物が食べたい」といった、ほんとうに自分が求める物から事業を発想していくのではないでしょうか。今は無理矢理、"他人の欲しがる物"を見つけて事業にしている人が多いように思えます。

家業に弟子入り

 高校時代はラグビー、大学に入学してからはアメリカンフットボールに明け暮れていました。自分の将来や就職について本気で考えるようになったのは、大学卒業が近くなってからです。その頃になって初めて「将来はどうすればいいのだろうか」と考え始めたのです。「独立したい」とか「自分で何かを始めたい」と漠然とは考えました。しかし当然のごとく社会経験はないわけですし、仕事と言えば父親の経営していた酒問屋でアルバイトをした程度ですから。結局はいろいろと考えてみて終わるだけでした。
  そんな時、父から「他人の会社に行ってもしょうがないから、うちの会社に入りなさい。商売をしっかりと教えてやるから」と誘われたのです。就職試験を受けるというのも面倒だなと思い始めていた矢先でしたから、それこそ渡りに船でした。そこで父の経営していた会社・酒類問屋の岡永商店(現・岡永)に入社したのです。
  父の会社に入ったのはいいのですが、最初は朝から晩まで酒瓶を担いでばかりでした。メーカーから酒が納入されてくれば、トラックから降ろして倉庫に積む。注文が入ると倉庫にある酒を配達用のトラックに積み込む。幸い体は頑丈にできていたので、苦でも何でもなかったですね。





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