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Front Interview
第1話 第2話
第3話 第4話
Vol.012 三井法律事務所 弁護士 代表パートナー 三井拓秀第1話 新世界へ
コラム(1) パーソナル・データ(1)
すまじきものは宮仕え

 なぜ弁護士という職業を選んだのかよく聞かれるのですが、子供の頃から憧れをもっていて、ずっとなりたかったというわけではないですね。親類関係で弁護士をやっている人もいませんでしたし。
  自分自身の指向として、大きな組織に入って仕事をするのは嫌だなという思いはありました。子供の頃から会社や役所に勤めている親や親類を見ながら、ずっと言い聞かされてきたのが「すまじきものは宮仕え」ということでした。幼心に、そういうものがすり込まれていたのかもしれません。ですから大学に入るぐらいの頃からでしょうか、どこかの有名な保険会社に行きましょうとか、銀行に行きましょうとか、そういった考えは頭の中にありませんでしたね。
  弁護士という職業を知ったのは、小学校の頃です。当時住んでいた家の前に弁護士さんの家がありました。その頃はテレビがまだ珍しい時代でしたが、その家に行くとテレビがあったり、冷蔵庫があったりするわけです。それで弁護士というのは豊かな生活ができる職業なんだなと思いました。


 私の父親は軍人で戦後は防衛庁に勤めていました。いわゆるキャリアシステムの中では恵まれなかった人です。母親は、そんな父を見て意気地がないと思ったのか、学費稼ぎを名目にして自分で商売を始めました。
  最初に母のやった仕事というのが不動産業でした。この仕事というのがトラブルが多かった。たとえば誰かに土地を売ったりすると、「最初に俺が声をかけた」とか「俺が紹介したんだ」などという人が次々出てきて、「手数料をよこせ」と始めるわけです。その問題がこじれてくると裁判になったりする。また周りの人から見れば「女だてらに」という思いもあったのでしょう、怒鳴り込まれたり、弱いものいじめをされたりしました。
  大学に入ると宅建(宅地建物取引主任者)の資格を取り、母の仕事を手伝うようになりました。そういうトラブルをより間近で見るようになり、反撃できないことが歯がゆかった。なんとか反撃できるような力を持ちたいとよく思ったものです。
  母はその後、不動産屋を辞めて別の方と一緒に印刷会社を始めたのですが、私もその仕事を手伝って紙を運搬したり、広告代理店に原稿をもらいにいったりしました。広告や印刷の世界というのは、担当にいくらかキックバックすると仕事を取りやすくなるということがありました。学生の頃からそういう実態を見て、「将来こういう仕事はしたくないな」と思っていました。

海外へのあこがれ

 大学入学当時は学園紛争が吹き荒れていて、講義がありませんでした。それで母の仕事を手伝っていたというわけです。ゲバ棒を振り回す連中を横目で見ながら、「お前らそんなこと言ってるけど、世の中は違うんだぞ」などと思っていましたよ。
  我々団塊の世代には共通かなと思いますけれど、子供の頃から海外への志、とくに米国へのあこがれが強くありました。山本一力さんの小説で『ワシントンハイツの旋風』というのがありますけれど、まさにあの小説で書かれた時代の雰囲気とでもいうのでしょうか。
  弁護士の仕事がいいなと本格的に思うようになったのは、大学に入学してからです。日本の金融市場の規制緩和が進んで、それに伴って弁護士が海外に渡って仕事をするということが増えていったのです。私の母方の叔父が役人をしていて海外に留学して、その話を私にしてくれたのです。私は「これはいい」と思いました。"弁護士の道に進んでみよう"と思ったわけです。





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