起業家・ベンチャーキャピタル・投資家を繋ぐコミュニティ・マガジン

Front Interview
第1話 第2話
第3話 第3話
Vol.016 GCA株式会社 代表取締役 佐山展生第2話 新しい世界へ
コラム(2) パーソナル・データ(2)
M&Aに出合う
 帝人にいた29歳の時、自分は大企業には向かないのではないかと思い始めました。しかし、独立して一人で生きていくとなると、その方法は限られます。それは法律や会計の資格でした。手始めに我妻栄著の民法を読んでみたのですが、これがおもしろかった。これだと思い、通信講座を受講し司法試験を目指し勉強をはじめました。
  司法試験の一次試験の願書を郵送した頃、たまたま会社の事務所の隣席の机の上に日経新聞が置いてありました。そこに三井銀行(現三井住友銀行)の中途採用募集の求人広告があったのです。条件は国際業務・証券業務、またはシステム関係の経験者であることですべて該当しませんでしたが、なんとなく銀行の人が私のような技術者をどう評価するのか興味がわいて履歴書を送ってみました。「銀行の中には製造業の経験者もいたほうが良い」「経営に興味がある」と自らの考えをまとめた文書も付けました。すると三井銀行から「面接に来てほしい」と自宅に電話がありました。もちろん会社には内緒ですし、妻にも「出張に行ってくる」と言い、銀行の面接に松山から東京に出かけたのです。
  面接では三井銀行が新しい事業として手がけるM&Aについて熱心に説明されました。M&Aについて知ったのはその時が初めてで、よく分からないけれど、この仕事はおもしろいかもしれないと思いました。そして、帰りの飛行機の中で、銀行に行くことを決心したのです。「銀行に行く」と妻に話したときは唖然としていました。独立したいという話はしていましたが、まさか銀行へ行くなどとは思っていなかったのでしょう。しかし、すぐに理解してくれました。銀行への転職は、両親や親族、会社の上司、同僚も友人も誰一人賛成してくれませんでした。皆「現状の何が不満なのだ」と聞いてくるのです。銀行に転職することについて、誰一人として「おもしろそうだ」とも言ってくれませんでした。

社員や家族の生活を守る
 三井銀行でM&Aアドバイザーとして働き始めたのは1987年7月13日からです。M&Aグループは、当初、総勢6人の小さな部隊でした。私自身もキャリアゼロからの再スタートになりましたが、三井銀行も未知の領域に参入したばかりで実績はゼロでした。そうした環境でスタートしたのが良かったのかもしれません。もし実績がある部署に配属されていたら、前例にとらわれたりして仕事も上手くいかず、私の人生も大きく変わっていたかもしれません。入社したばかりの頃は朝9時前に出社して夕方5時過ぎになると退社するという生活でした。一年間は銀行という職場に慣れようと思い、同僚と一緒に飲み屋やマージャンによく行きました。
  銀行に入って間もなく、大阪の三井銀行中之島支店から私たちの部門に仕事の依頼がありました。愛媛県にあった来島どっく(現・新来島どっく)傘下のボイラーの会社を、大阪の明星工業が買収したいという案件でした。私はボイラー技士2級の免許を持っていたため、上司から「佐山君、担当してくれるか」と任されました。私にとって生涯初めてとなるM&Aであるとともに、ボイラー技士の免許が役に立った唯一の例でした。先輩の方とこの仕事に張り付きました。買い手が大阪で、売り手は愛媛県の今治ですから四国と大阪の間を何度も行き来しました。来島どっく側が売却しようとしていたボイラーの会社は、もしM&Aが失敗すると倒産が必至でした。このM&Aには社員と家族の生活がかかっていたのです。それが念頭にありますから、それこそ死にものぐるいになってとりまとめに奔走しました。
  調印式はその年の10月初旬、大阪のロイヤルホテル(現・リーガロイヤルホテル)で行いました。調印が済んだ時、「これでこの会社で働いている社員や家族の生活を守ることができた」と充実感でいっぱいになりました。この成功で、M&Aのおもしろさとやりがいを感じることができるようになりました。その後もM&A案件を手がけることになりましたが、私の強みの一つが帝人にいて物作りの現場を知っていることです。物作りとはいかなるものか、現場で働いている人が何を考えているのかを肌で感じられることはM&Aの仕事には欠かせないものです。もう一つが、司法試験に取り組んだことですね。民法、憲法、会社法などの法律知識が実務に役立ちました。




HC Asset Management Co.,Ltd