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Front Interview
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第3話 第3話
Vol.016 GCA株式会社 代表取締役 佐山展生第2話 新しい世界へ
コラム(2) パーソナル・データ(2)
米国でMBAを取得
 私が三井銀行でM&Aを手がけはじめた頃、日本企業はまだまだ企業を売却するということに抵抗がありました。ですから、買収の対象は必然的に海外企業が多くなりました。ある米国企業の買収案件で、米国へ何度か出張し、条件については合意できるまでにこぎつけたのですが、最後に金額だけ開きがありました。売り手は30億円、買い手は20億円。10億円近くの開きがありました。日本ならその間の数字で落ち着くと思って、そう言ったところ、10年以上米国に住んでいた上司から「やつらは違うんだ」といわれました。出張でしか米国に行ったことのない私が、米国在住経験の長い人を説得することはできないことに気づきました。私は米国とのM&Aに本気で取り組むなら米国に住んでみるしかないと思いました。その希望を上司に伝えニューヨークに転勤することになりました。ニューヨークに赴任したのは1990年10月でした。三井銀行が太陽神戸銀行と合併した半年後のことです。
  ニューヨークに着いてすぐの頃、日本ではバブルが崩壊。湾岸戦争も始まり日米同時不況となりました。日本人は仕事がなくても遅くまで会社に残っていますが、米国人は定時でさっさと帰っていきます。米国人は夕方急いでいったいどこへ行くのだろうと聞いてみると、MBA資格取得のため大学院の夜間コースに通っていることを知りました。そこでいろいろと調べてみて、ニューヨーク大学の大学院に夜間のMBAコースがあることがわかり、挑戦してみることにしました。
  38歳の時です。なぜその年齢になって勉強しようと思ったのかというと、それまで自分の中で全然勉強してこなかったと感じていたからです。とにかく真剣に勉強してみたかったのです。MBAに通い始めたのは1992年の9月からでした。夕方の5時に会社が終わると、すぐに地下鉄の駅まで走っていき電車に乗り込みます。大学があるウエストフォースストリート駅の改札に一番近い扉から降りられるように、乗り換え口に近いところへと駅に止まる度に車両を移動しました。駅に着いてからもまた走り、ギリギリ5時半の講義に間に合いました。夜間コースの学生はほとんどが20代の米国人です。それに混ざって38歳の私が教室の一番前の席に座り必死で講義を受けていました。講義が終わると日本料理店で軽い食事をして午後10時前には必ず一度会社に戻っていました。いつ日本に帰ることになるかわかりませんから、講義はとれる上限まで取りました。こうして4年かかると言われましたが、2年間でMBAの資格を取得しました。

神様がくれた休暇
 日本へ戻ってきたのは1996年の1月16日。銀行というものは海外赴任から帰国するとすぐにどこかのポストが用意されているわけではありません。暇だから何かしようと考えました。そんな時、日本にも社会人向け大学院ができていることを知りました。筑波大学や慶應義塾大学等は平日の講義にでなければ単位が取れなかったのですが、東京工業大学は社会人にも配慮した特定の教授との週末集中ゼミ方式なので、これなら通えるかもしれないと思い、図書館で東京工業大学の教授陣について調べました。そして私の学びたいことに近かった経営工学の古川浩一教授(現・東京工業大学名誉教授、中央大学特任教授)に連絡を取ったのです。
  1996年4月から古川教授の薫陶の下、博士課程の勉強を始めました。毎週末に東京工業大学に通い指導を受けるのは思った以上に大変でした。特にきつかったのが博士論文です。3年目の12月はじめが論文の締め切りだったのですが、仕事が忙しく11月なのにまだ4分の1くらいしかできていない。もう間に合わないと半分あきらめかけていた頃です、ちょうどフルマラソンに挑戦しようと駒沢公園でジョギングを始めたばかりだったのですが、無理がたたったのか足を痛めてしまって地面につくのも痛い状況になってしまったのです。病院へ行くとすぐにギブス、松葉杖状態。会社を休み1カ月間治療に専念しなければならなくなりました。幸いこの休みを使って無事に卒業論文を書き上げることができました。今でも信じられませんがまさにベストタイミングでした。この時ばかりは、神様が助けてくれているのかもしれないと思いました。


(6月20日更新 第3話「あくなきチャレンジ」へつづく)  




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