私が三井銀行でM&Aを手がけはじめた頃、日本企業はまだまだ企業を売却するということに抵抗がありました。ですから、買収の対象は必然的に海外企業が多くなりました。ある米国企業の買収案件で、米国へ何度か出張し、条件については合意できるまでにこぎつけたのですが、最後に金額だけ開きがありました。売り手は30億円、買い手は20億円。10億円近くの開きがありました。日本ならその間の数字で落ち着くと思って、そう言ったところ、10年以上米国に住んでいた上司から「やつらは違うんだ」といわれました。出張でしか米国に行ったことのない私が、米国在住経験の長い人を説得することはできないことに気づきました。私は米国とのM&Aに本気で取り組むなら米国に住んでみるしかないと思いました。その希望を上司に伝えニューヨークに転勤することになりました。ニューヨークに赴任したのは1990年10月でした。三井銀行が太陽神戸銀行と合併した半年後のことです。
ニューヨークに着いてすぐの頃、日本ではバブルが崩壊。湾岸戦争も始まり日米同時不況となりました。日本人は仕事がなくても遅くまで会社に残っていますが、米国人は定時でさっさと帰っていきます。米国人は夕方急いでいったいどこへ行くのだろうと聞いてみると、MBA資格取得のため大学院の夜間コースに通っていることを知りました。そこでいろいろと調べてみて、ニューヨーク大学の大学院に夜間のMBAコースがあることがわかり、挑戦してみることにしました。
38歳の時です。なぜその年齢になって勉強しようと思ったのかというと、それまで自分の中で全然勉強してこなかったと感じていたからです。とにかく真剣に勉強してみたかったのです。MBAに通い始めたのは1992年の9月からでした。夕方の5時に会社が終わると、すぐに地下鉄の駅まで走っていき電車に乗り込みます。大学があるウエストフォースストリート駅の改札に一番近い扉から降りられるように、乗り換え口に近いところへと駅に止まる度に車両を移動しました。駅に着いてからもまた走り、ギリギリ5時半の講義に間に合いました。夜間コースの学生はほとんどが20代の米国人です。それに混ざって38歳の私が教室の一番前の席に座り必死で講義を受けていました。講義が終わると日本料理店で軽い食事をして午後10時前には必ず一度会社に戻っていました。いつ日本に帰ることになるかわかりませんから、講義はとれる上限まで取りました。こうして4年かかると言われましたが、2年間でMBAの資格を取得しました。 |