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Front Interview
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第3話 第3話
Vol.018 グラムコ株式会社 代表取締役社長 山田敦郎第1話 好奇心より出ずる
コラム(1) パーソナル・データ(1)
早熟なお調子者

 神戸に生まれた私は、子供の頃から関西弁でいうところのイチビリ(お調子者)でした。奇抜な話で仲間を驚かせることが大好きでした。また、絵を描いたり、文章を書いたりすることが好きで、年端もいかないのにみずから表現したものを自画自賛していました。中学生の時には漫画家になりたくて、「藤子不二雄先生は2人で漫画を描いているのに、自分は1人でこれだけ描けるのだから、天才に違いない」と信じていました。そのころ不二家がスポンサーをしていたテレビアニメ「オバケのQ太郎」の似顔絵とストーリーを募集するキャンペーンがあり、これに応募したところ、優秀賞10人のうちの1人に選ばれデンマーク旅行に招待されました。海外旅行が自由化された直後で、藤本弘(藤子・F・不二雄)先生が団長となり、途中でいくつかの国に立ち寄りながらの2週間の旅でした。
  またラジオ大阪の深夜番組「オールナイト大阪」にコントを書いて送ったところ、大好きだった笑福亭仁鶴師匠に褒められたものですから、気を良くして夢中になってコントを書き送っていた時期もありました。高校に入ると小説家や劇作家に憧れて実際に脚本を書いてみたり、映画監督になろうと16mmで映画を撮ったこともあります。また、学生時代はジャンルにはこだわらず本も良く読みました。とくに好きだったのは、太宰治、安部公房、埴谷雄高、カフカ、ニーチェ、ジョルジュ・バタイユなどの作家でした。
  自分でもあきれるほどいろいろなものに興味を持ち、何にでも首をつっこんできたと思います。ただ、一貫していたのは表現者になりたかったということです。その思いの源泉になっていたのは、おそらく祖父の家で見た油絵だったのでしょう。祖父は梅原龍三郎や佐伯祐三などの絵画を数多くコレクションしており、幼い頃から本物の絵画にふれる機会に恵まれていたのです。


アイスクリーム集団設立
 高校(慶應義塾高等学校)時代は、勉強そっちのけでコンサート企画などに熱中していました。企画だけではあきたらず、友人とバンドを結成して演奏も行い、東京の高校横断コンサートを開いたりしました。さらには、コンサートのパンフレットを作ったり進行台本を書いたりもしました。この慶應高校の1年上にいたのが松任谷正隆(作曲家・音楽プロデューサー)さんでした。
  コンサートを主催していたときに、ヤマハホールを使わせてもらおうということになり、ヤマハの担当者の方と打ち合わせをしているうちに「君の考えていることは面白い。ヤマハの仕事を手伝ってくださいよ」と声をかけていただいたのです。それが椎野(秀聰・現ベスタクス社主)さんとのはじめての出会いでした。それを契機に、ヤマハの楽器ブランドの開発をお手伝いしたり、ヤマハ銀座店にミュージックツリーと呼ぶロックの系譜を示す大きな壁画を描いたりしました。また、キャンペーンのためのグッズ作りからデザインにも関わるようになりました。
  その当時、私たちは雑誌を作りたいと考えていました。椎野さんのご紹介で自由國民社の笠木修治さんと一緒になって雑誌の企画に取り組み、発行寸前までいったのですが、結局頓挫してしまいました。あれこれと欲張りすぎたのがいけなかったのかもしれません。それなら、いっそのこと自分たちで会社を作って雑誌を発行しようじゃないかということになりました。さらには、雑誌だけでなく自分たちのやりたいこと、やってみたいことを実現させていこうと、その時の雑誌づくりに関わったメンバーが集まってできたのがアイスクリームコーポレーションでした。フェルナンデスやHSアンダーソンといった楽器のブランドをプロモーションしたり、また楽器のデザインや設計もしました。私もアップルギターという名のリンゴを真っ二つに切った形のギターをデザインしました。





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