起業家・ベンチャーキャピタル・投資家を繋ぐコミュニティ・マガジン

Front Interview
第1話 第2話
第3話 第3話
Vol.018 グラムコ株式会社 代表取締役社長 山田敦郎第2話 自問自答
コラム(2) パーソナル・データ(2)
表現者というアイデンティティ
 アルジェリアに来て4〜5年経ち、ようやくプロジェクトも軌道に乗りだした頃のことです。仕事は長期にわたるものでしたから、日本側の体制も次々に変わっていきました。アルジェにあった本部も人がどんどん変わっていきます。しかし私はプロジェクトに張り付いたままでした。このまま一生このプロジェクトと付き合っていくことになるのではないか、と思ったのです。
  そして、さらに、本当の自分は「表現者」になりたかったはずだ。今やっている事は本来自分がやるべきことではないとさえ思えはじめてきたのです。自分の人生を軌道修正したい。なんとかしなければという気が日々強くなっていきました。冷静な目で私が抜けてもプロジェクトが滞る事はないと判断できたとき、丸紅を退職する決心をしました。丸紅に勤務していた期間は10年と10カ月でした。
  しかし、丸紅で、会社の再生に携わったり、多くの修羅場を経験したことは得難い経験でした。とくに、アルジェリアでの経験は今の仕事にも生きています。じつは、ブランド構築の仕事の流れは、プラントエンジニアリングと同じ手法で進めているのです。

グラムコ誕生
 丸紅を辞めたあと、高輪のマンションに事務所を開いたのが1987年3月9日。グラムコを設立したのです。その日は奇しくも私の誕生日でした。何事につけ準備不足のままのスタートでしたが、丸紅では社会経験、国際的な視野、語学力、さらには逆境における度胸もつけてもらいましたから、会社の先行きについては楽観していました。
  創業当時、グラムコでやろうとした仕事は「CI」という言葉で一括りにされていました。日本でCIを仕事にしていたのは、中西元男さんのパオス(PAOS)の出身者か、米国ランドー社(Landor Associates)出身の方ばかりでした。つまりこの2つの派閥しかなかったのです。私はどちらの派にも属していない、ぽっと出ですから、大きな氷山の下にいて隙間から浮上するまでは、それは大変な思いをしました。しかし遅れてきた分、仕事をブランディングにシフトすることにしたことで、この分野におけるパイオニア的存在になれたと思います。
  しかし、創業当時の周囲の環境は最悪でした。ようやく本格的に仕事に取り組めるようになってきたと思ったとたんにバブル崩壊に直撃されたのです。1980年代から1990年代初頭まで、日本はバブルで浮かれていました。CIブームもちょうどの時期に起こったもので、「税金を払うぐらいならCIでもやるか」という会社の思惑が背景にあったのです。しかし、バブル崩壊とともにCIブームは跡形もなく消えてしまったのです。

後発者ゆえのビジョン確立
 業界では出遅れ者ではありましたが、右も左もわからずにこのブランディングとビジネスを始めたわけではありません。ブランディングというものの存在とその重要性に気がついたのは、丸紅のアルジェリア駐在時代に、物資調達の仕事で長期にわたりフランスに滞在したことからでした。見るもの、聞くもの、ふれるもの、すべてにおいてフランス人の持つセンスの良さを痛切に感じたのです。それからは、フランスの文化、芸術はいうに及ばず、社会や経済についても猛烈に勉強をしました。
  日本に帰国後、我と我が目を通して、日本のプレゼンスの低さを嫌というほど知らされました。「日本にはブランドが足りない。それもセンスのよい光るブランドが足りない。永続的に国として成長発展していくためには、世界に誇れる日本発のブランドをたくさん作らなければいけない。そして、その手助けを自分がやりたい」。そう思うに至ったのです。
  グラムコ創業の根底には、「日本発のブランド、信頼を得られ顧客を魅了するような企業・製品・サービスをつくる」ことにより、「日本が尊敬と羨望で見られる国になっていく」という思いがあったのです。




HC Asset Management Co.,Ltd