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Front Interview
第1話 第2話
第3話 第3話
Vol.018 グラムコ株式会社 代表取締役社長 山田敦郎第1話 好奇心より出ずる
コラム(1) パーソナル・データ(1)
モラトリアムからの脱出
 当時、アイスクリームコーポレーションでは、一番若い私ですら月に何十万円も稼いでいました。しかし、椎野さんの「こんなに簡単に金が稼げると思ってはいけない」というひと言で、はたと気づき解散を決意したのです。解散した後、私は個人でトライスタジオという会社を作り、洋服屋のデザインをしたり、「週刊プレイボーイ」の編集を手伝ったりしていました。この会社も面白いように儲かりました。今思い返すと赤面ものですが、白い毛皮のコートを着て六本木へ仲間を連れて出かけ、一晩で数万円のお金を使う様な生活をしていました。30年近く前で数万円ですからけっこうな金額です。それをまさにばらまくように使っていたのです。
  大学の卒業も近くなり、アイスクリームコーポレーション解散の経緯を思い返しながら、「こんな生活を続けていたら自分がおかしくなる」と思ったのです。まともな社会経験もないのに、お金だけは泡をつかむように手元に集まってくるのですから。モラトリアムから抜け出して現実の厳しさを肌で体験しようと、会社に就職することにしたのです。博報堂と丸紅に内定が決まりました。そして、「海外に行き、見聞を広めたい」という思いが強く、総合商社の丸紅を選んだのです。
  丸紅は大変厳しい会社でした。ここで社会のルール、そして、ビジネスとは何なのかといったことを教えられました。丸紅に入社してからも、個人事務所のトライスタジオは1年間たたまずにいました。

いざ、アルジェリアへ

 丸紅に入社して三年目、アルジェリアに富士紡績の工場を作るプロジェクトが決まり、そこに関わることになりました。弱冠25歳ながら500人ほどいる現場のトップ、年上の人たちを引っ張っていく大役を仰せつかったのです。当時は丸紅がロッキード事件で世間を騒がせている時期でもあり、現場の人たちの私を見る目も厳しく、大変苦労をしました。娯楽のない土地なので、年末には現場に仮設舞台を組んで、紅白歌合戦を開催するなど、現場や現地の人たちとのコミュニケーションをはかることに努めました。
  商社の仕事は受注だけが仕事と思われがちですが、このプロジェクトは丸紅がゼネコン的な立場で全体の仕事をまとめるものでした。プラントにははっきりとした工程があり、第1フェーズでは基礎をつくる。基礎ができたら第2フェーズに入り杭打ちをするといった流れが決まっています。また、工場ができあがれば、そこに機械を据えつけ、試運転をし、工場で働く工場長から一般の工員までそれぞれの職ごとに教育訓練を行うという仕事が待ち受けています。
  そのひとつひとつがすんなりと進むわけではなく数々のトラブルの連続でした。そのたびに私は「大丈夫だよ。やれるよ、やれる」と言って現場を勇気づけていくのです。そのうち「山田さんが大丈夫だと言うのだから、やれる気がする」と現場の皆さんから言ってもらえるようになりました。

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月8日更新 第2話「自問自答」へつづく)




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