高校(慶應義塾高等学校)時代は、勉強そっちのけでコンサート企画などに熱中していました。企画だけではあきたらず、友人とバンドを結成して演奏も行い、東京の高校横断コンサートを開いたりしました。さらには、コンサートのパンフレットを作ったり進行台本を書いたりもしました。この慶應高校の1年上にいたのが松任谷正隆(作曲家・音楽プロデューサー)さんでした。
コンサートを主催していたときに、ヤマハホールを使わせてもらおうということになり、ヤマハの担当者の方と打ち合わせをしているうちに「君の考えていることは面白い。ヤマハの仕事を手伝ってくださいよ」と声をかけていただいたのです。それが椎野(秀聰・現ベスタクス社主)さんとのはじめての出会いでした。それを契機に、ヤマハの楽器ブランドの開発をお手伝いしたり、ヤマハ銀座店にミュージックツリーと呼ぶロックの系譜を示す大きな壁画を描いたりしました。また、キャンペーンのためのグッズ作りからデザインにも関わるようになりました。
その当時、私たちは雑誌を作りたいと考えていました。椎野さんのご紹介で自由國民社の笠木修治さんと一緒になって雑誌の企画に取り組み、発行寸前までいったのですが、結局頓挫してしまいました。あれこれと欲張りすぎたのがいけなかったのかもしれません。それなら、いっそのこと自分たちで会社を作って雑誌を発行しようじゃないかということになりました。さらには、雑誌だけでなく自分たちのやりたいこと、やってみたいことを実現させていこうと、その時の雑誌づくりに関わったメンバーが集まってできたのがアイスクリームコーポレーションでした。フェルナンデスやHSアンダーソンといった楽器のブランドをプロモーションしたり、また楽器のデザインや設計もしました。私もアップルギターという名のリンゴを真っ二つに切った形のギターをデザインしました。