私が入学した年の東京芸術大学の芸術学科は1学年20人でした。同級生には後にテクノ評論をやるようになった三田格さん、また絵画科で、現在映画美術をしている林田裕臣さんなど、 ユニークな人物がたくさんいました。東京芸大に進学して良かったのは、授業料が年間18万円しかかからなかったことです。この点ではとても親孝行ができたと思います。とはいえ、結局大学に6年いることになってしまいましたが。
当時、松岡正剛さんが主宰していた工作舎から「遊」という、現代の知をあらゆる観点から検証していく、ひじょうに前衛的な雑誌が刊行されていました。その影響をもろに受けて、大学2年の時、武蔵野美術大学、東京造形大学、多摩美術大学、日本大学芸術学部など各大学、芸術系学部の有志と一緒に「システムデザインフィールド(SDF)」と名付けたネットワークを作りました。その仲間で定期的に集まって、さまざまな情報交換をしたり、大学でシンポジウムを開くなどの活動を始めました。当時のシンポジウムには浅葉克己さん(アートディレクター)、野口三千三さん(体育学者・野口体操考案者)、坂井直樹さん(コンセプター)、真壁智治さん(建築家)といった方々をゲストやパネラーとして招きました。なによりもこうした人たちとお会いできることはとても楽しく刺激的なことでした。
この時代というのは、浅田彰さん(現・京都大学経済研究所准教授)が『構造と力 記号論を超えて』で颯爽と登場してきたり、中沢新一さんの『チベットのモーツアルト』が出版されたり、ニューアカデミズムの旗手達が次々と誕生してきました。また一方で、村松友視さんの『私、プロレスの味方です』、平岡正明さんの『わたしの歌謡曲』といった、いわゆる日本でのポップカルチャーが台頭してきた時代でもありました。日本人が見過ごしてきたものや、それほど注目されていなかった大衆文化を独自の視点で読み解くことが流行りました。日本の芸術に対する見方や観念も、この時代に大きく変わったのではないでしょうか。オーソドックスな芸術作品から、米国のカウンターカルチャーの影響を受けた作品までが混在していました。こうした時代から、私はとても影響を受けていると思います。ですから、どんなジャンルのどんな芸術作品でも、偏見なく自由に見るようにつとめています。もちろん一方では、映画評論で知られる蓮實重彦さん(元東京大学総長・東大名誉教授)のようなアカデミックな流れもしっかり残っていましたが、それもまた過激でスリリングなものでした。私の大学時代はギャラリーには通っていましたが、美術だけに興味があるというわけではなく、映画や演劇、音楽などの様々な表現の芸術を、いろんなところに行って一生懸命見ていました。
(9月12日更新 第2話「現代美術の森へ」へつづく)
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