そして、村上さんを通して、同世代の日本の若手作家たちと出会うことになります。若手作家たちと出会ううちに、彼らには発表する場がまったくないことを知りました。また、どうしたら日本の作家は海外に出て行けるのかといったような話を盛んにするようになりました。当時の日本のコンテンポラリーアートのギャラリーは、海外の作家を日本に紹介するのが主で、日本の作家を海外に紹介する仕事はあまり手がけていませんでした。そこで白石さんを説得して表参道のマンションの一室をギャラリースペースにして、「白石コンテンポラリーアート・プロジェクトルーム」と名付けて、若手作家たちの企画展を開くようになりました。
白石コンテンポラリーギャラリーでの仕事にも慣れてきた頃、たまたま私の東京芸大の同級生だった建築家の宮崎さんから「銭湯の建物をそのままギャラリーとして使わないか」という話が持ち込まれました。彼は「谷中学校」という谷中周辺の町並み保存の活動をしていたのです。この話を白石さんにしたところ「それはおもしろい」と大変乗り気になってくれました。
こうしてできたのが「スカイ・ザ・バスハウス」です。大家さんも大変理解ある方でしたのでギャラリーづくりは楽しい作業となりました。ギャラリーが完成するとスカイ・ザ・バスハウスの企画運営の仕事も任されるようになりましたので、奈良美智さん、村上隆さんや中村政人さんをはじめ、私と同世代の作家の展覧会を積極的に企画開催しました。でも、売れてもまだ非常に安かった彼らの作品では、ギャラリーの経費を捻出するのは難しかったのです。公立の美術館に有名海外アーティストの作品を売ったりする仕事をして、なんとかお金を稼いでいました。 |