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Vol.019 小山登美夫ギャラリー オーナー 小山登美夫第2話 現代美術の森へ
コラム(2) パーソナル・データ(2)
銭湯で現代美術を
 そして、村上さんを通して、同世代の日本の若手作家たちと出会うことになります。若手作家たちと出会ううちに、彼らには発表する場がまったくないことを知りました。また、どうしたら日本の作家は海外に出て行けるのかといったような話を盛んにするようになりました。当時の日本のコンテンポラリーアートのギャラリーは、海外の作家を日本に紹介するのが主で、日本の作家を海外に紹介する仕事はあまり手がけていませんでした。そこで白石さんを説得して表参道のマンションの一室をギャラリースペースにして、「白石コンテンポラリーアート・プロジェクトルーム」と名付けて、若手作家たちの企画展を開くようになりました。
  白石コンテンポラリーギャラリーでの仕事にも慣れてきた頃、たまたま私の東京芸大の同級生だった建築家の宮崎さんから「銭湯の建物をそのままギャラリーとして使わないか」という話が持ち込まれました。彼は「谷中学校」という谷中周辺の町並み保存の活動をしていたのです。この話を白石さんにしたところ「それはおもしろい」と大変乗り気になってくれました。
  こうしてできたのが「スカイ・ザ・バスハウス」です。大家さんも大変理解ある方でしたのでギャラリーづくりは楽しい作業となりました。ギャラリーが完成するとスカイ・ザ・バスハウスの企画運営の仕事も任されるようになりましたので、奈良美智さん、村上隆さんや中村政人さんをはじめ、私と同世代の作家の展覧会を積極的に企画開催しました。でも、売れてもまだ非常に安かった彼らの作品では、ギャラリーの経費を捻出するのは難しかったのです。公立の美術館に有名海外アーティストの作品を売ったりする仕事をして、なんとかお金を稼いでいました。

小山登美夫ギャラリー誕生
 白石さんは自由に仕事をさせてくれる方でした。そのことについては大変感謝しています。しかし、私自身は村上隆さん、奈良美智さんを核にして、もっと本格的に若手作家に取り組みたいという思いが募っていました。そこで1995年12月に、白石コンテンポラリーアートを退社することにしたのです。白石さんの元にいた6年半ほどの間に、実に様々なことを学びました。とくに広報やプレス対応の重要性を学びました。
  自分のギャラリーを開く場所を探していたときに、佐谷周吾(現・シューゴアーツオーナー)さんから勧められたのが江東区佐賀にあった食糧ビルでした。実はこのビルには、無印良品のブランディングを行ったことでも有名な小池一子さん(現・武蔵野美術大学教授、クリエイティブディレクター)の仕事場である「佐賀町エキシビットスペース」があり、 みんなによく知られていた場所なのでした。しかし私自身は交通の便や、従来のギャラリーとは場所的なイメージが違っていると考え、一時躊躇していたのです。
  しかし、いろいろと探し回ったのですが、どこも帯に短したすきに長しで、これだという場所が見つかりませんでした。食糧ビルのスペースは2階の部屋で、最初から壁から照明までギャラリー仕様になっていて、賃貸料はひと月わずか8万円。この安さも魅力で、この場所でギャラリーをスタートさせることに決めました。実は当時、私自身にほとんど蓄えがありませんでしたので、母と妻から資金を借りてオープンにこぎ着けました。

(9月19日更新 第3話「商人道開眼」へつづく)  




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