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Vol.022 財団法人ベンチャーエンタープライズセンター理事長 濱田隆道第1話 多様性の海で
コラム(1) パーソナル・データ(1)
小学生のカルチャーショック
 小学1年生の頃には、日本の通貨はどうやって発行量が決まるんだろうなどと考えていたくらい、わりと早熟な方でした。自分で言うのもなんですが、よく勉強する真面目な子供で、小学校高学年のころから官僚になろうと思っていました。父が内務省の役人で警察官僚だったので、国家公務員という存在が身近なものでしたから。
 父は子供に背を見せて語るタイプでした。時代も時代でしたし、子供心にも、父が公のために尽くしていることはわかりました。台風の災害救助とか暴力団対策とか巨額の現金強奪事件の捜査とか、各県警の幹部として警察官を動員して指揮を執ったり、治安維持に携わったり。そういう姿を目にしていたので、官僚になろうというのは、自分の中ではごく自然のことでした。
 小学生時代は、4回転校しています。警察のキャリア官僚というのは、地方の県警を回りながら、1〜2年で任地が変わる。だから、学校にはなかなか馴染めなかったし、勉強のレベルも教え方も違ったので大変でした。1年生の時は東京・中野で普通の小学校でしたが、2年生で名古屋に行ったら、街の真ん中にある名城小学校というすごい進学校。急にレベルが高くなったけれども、次の札幌では学習進度が遅い、というふうに子供ながら学習面で苦労をしました。成績も上がったり下がったり。ただ、転校を繰り返したことで学習面だけではなく友人との交友関係、方言の違いによるコミュニケーションの難しさなど、異なる環境に適応するため苦労したことで、早い時期から多様性というものは感じ取れるようになったと思います。
 役所に入ってからは、中東への赴任をはじめ、いろいろな国で異なるカルチャーを経験する機会がありましたが、カルチャーショックは受けても、それぞれの文化の多様性を受け入れるのも早かった。それは、子供時代の経験が影響していると思います。

通産省をめざす
 小学校6年生の夏休みに東京に戻り、中学に進学しました。学校は麹町中学校。当時は番町・麹町・日比谷・東大といわれたくらいの進学校で、まさに受験戦争真っ直中にいたわけです。僕自身は淡々と勉強していました。部活はバレーボールをやっていました。当時、東京オリンピックで東洋の魔女が大活躍をし、花形スポーツでしたから。あの頃はじつにいろいろな事件が起きた時代でした。また大学進学を目指していた頃はフォークソング全盛期で、若者の意識も変化した時期でした。全共闘で騒然としていましたが、僕自身は、気持ち的には当時でいうところの「ノンポリ」でした。
 父を見ていて警察というものは犯罪を防止し、健全な社会を形成する意味では非常に重要な役割を担っているけれども、さらなる経済発展を生み出す機能は持っていないな、と思いました。だから、高校生の頃からは、自分は通産省のような経済発展を促すような役所をめざそうと思うようになりました。大学も法学部ではなく、経済学部をめざしました。経済のメカニズムを理解した上で、どういうふうに産業を育てていったらいいのか、そういうことに関心があったし、ダイナミズムを感じる仕事に携わっていきたいと思っていました。

マルクスとの出会い
 大学受験は東大紛争で入試がなかった年でした。1年目は、試験そのものがなかったからしょうがないですが、2回目は私自身の学力不足で落第。結局、二浪して東大に入りました。
 学生運動には最初から意味はないと思っていましたし、大学でゴルフしていたくらいですから、まあ、享楽的な人間だったのでしょうね。ただ東大の経済学部というのは面白くて、入ってみるとマルクス経済学の先生が多くいました。あの頃は授業の半分がマル経でした。ヘンな授業をやるなあと思っていましたよ。
 もちろんマルクスの「資本論」も読んだし、マルクス経済学も勉強しましたが、実際に学んでみると、社会を見る視点というのは、近代経済学よりもマルクス経済学の方がずっとしっかりしていますね。ゼミの指導教官は、世界的に有名な経済学者の浜田宏一先生でした。当時は浜田先生に国際金融論などを教わりました。経済学への憧れというのは、浜田先生を通じて学びました。





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