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Vol.022 財団法人ベンチャーエンタープライズセンター理事長 濱田隆道第2話 門戸を開く
コラム(2) パーソナル・データ(2)
ベンチャーの火中へ
 1975年の創立間もない頃のVECは、ベンチャー企業を支援する仕組みを持っていた唯一の機関でした。その債務保証制度の審査委員長だったのが、HONDAの創業者である本田宗一郎さんでした。だからベンチャー支援の世界では、僕は古株になるのです。生身の本田さんと話をして一緒に仕事をしたのですから。本田さんはとても面白い人でした。裏表がなくて、実に明るい方でしたね。巷間、いろいろな人物像が伝えられていますが、そのすべてが当てはまる魅力多い方でした。
 石油部に配属になった後、経済企画庁に出向し、経済協力の担当としてOECF(海外経済協力基金)の円借款を見ていた頃は、鉄道を引いたり、橋を架けたり、IJPC(イラン・ジャパン石油化学)というイランの石化プロジェクトに関わったり、そのどれもが大規模プロジェクトでした。そのビックプロジェクトのファイナンスという仕事を経験した後、VECの担当となったので、ベンチャーの世界はまったく違う世界で新鮮に感じられました。
 しかし、僕がベンチャー政策とはじめて出会った1980年頃は、ベンチャーブームが一時期下火になりかかっていました。清成先生たちは、重化学工業化が進んだ1960年代後半の高度成長期に機械工業を中心に発達してきた日本の中小企業を対象に、米国と異なる日本型のベンチャービジネスのデータを集めて中身を詰めていたのですが、清成さんたちが面白いといって取り上げていたこうした企業も、石油ショックで壊滅的なダメージを受けて、全体としてはたそがれていた時期でした。

進取の精神に富む
 当時は店頭市場や東証2部が硬直的で、新興企業が上場しようにもハードルが高かった。大企業中心で、上場数もまったく増えなかったですね。流通市場としての公設市場が門戸を開かなければ、日本の資本主義は死ぬ、そういう思いを持っていました。その原因は上場する際の参入障壁があったからで、さらにいうなら、成長資金を提供する担い手となる企業群もなかったのです。そこで、東証はもっと研究して、ベンチャーが上場できるようにルールを変えていくべきだとか、ベンチャーキャピタルの資金調達手段として投資事業組合制度などを活用すべきだ、などということを清成先生らの勉強会でレポートとしてまとめて発表しました。マスコミの反応もよく、日経新聞なども応援してくれました。
 それが補佐の5年目。怖いものなしでした。当時の役所にはまだ、進取の精神に富む雰囲気がありました。ですから、日本におけるベンチャーキャピタル産業発展の基礎を築いたこと、新興市場の大きな流れを最初に位置づけたことは、自分としては通産相時代の本当に誇れる仕事と言えます。
 その後は、産業政策局のサービス産業課長として、社団法人ニュービジネス協議会を担当しました。今はサービス産業ユニットになってサービス行政も充実していますが、当時は政令課がひとつで、様々なサービス産業を担当していました。

テクノロジーからサービスへ
 VECの所轄は研究開発型のハイテク産業が中心でしたが、ニュービジネス協議会は、新しいサービスの提供を考えるベンチャーの集まりで、サービス系のベンチャーを応援するのが目的でした。
 シダックスの志田勤さん、ぴあの矢内廣さん、ダイヤルサービスの今野由梨さんなど、みんなまだ新進気鋭で伸び盛りの経営者でした。ニュービジネス協議会の当時の会長は、NECの故関本忠弘さんでしたが、経団連の副会長になられるとき、次はアサヒビールの樋口廣太郎さんに会長になっていただこうというような仕事をしていました。
 サービス産業というのは日本のGDPの3分の2を占めていますが、その半分は電気通信や輸送など全国ネットで展開するネットワーク系のサービス業。これはサービス産業の中でも規模が大きく、それぞれ所管があります。その他に個別サービス業というものもあって、スポーツや映画産業、リゾートなど、いろいろな業種と付き合いがありました。




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