銀行では、組合活動ばかりしていたので、15年間、一度も異動で本社から出たことがありませんでした。銀行時代に学んだものは、やはり組織です。全国信託銀行従業員組合連合会の委員長として、3万人の組織というのはどうすれば動くのか、また、規模が変われば組織を動かす原理も変わる、ということを学びました。3万人規模になると、もう自分の思ったようには動かないわけです。数人であれば、コミュニケーションをすれば僕の意志が伝わりますが、3万人ともなると、構成員の人たちが聞きたくないと思ったことは、まったく届かないのです。でも一方、僕が酒の席で、こうなるかもしれないとちょっと喋ったような情報が、あっという間に広がります。
選挙の応援活動に関わったのも、今から思えば、若いからできたことなのでしょうね。当時は田中角栄の絶頂期でした。1974年7月7日に行われた第10回衆議院議員選挙は、通称七夕選挙といわれ、いわゆる企業ぐるみの選挙戦でした。住友グループは鳩山威一郎氏、日立グループが山東昭子氏というように企業グループに候補者を割り当てて応援を行っていました。三菱グループは組織力があったので、いちばん知名度の低い坂健氏という元総理府の役人を推すことになっていたのです。
ある日、職場の机の上に坂健氏の後援会に入るようにとの入会申し込み書が置かれていました。それを見て、僕は「労働契約はしたけれど、政治契約をした覚えはない」と噛みついたのです。そうしたら、当時の赤間義洋頭取が全行員に向けて、「実はこの件について、自分は知らなかった。しかし、知らなかったとはいえない立場にいる。私の目が黒いうちは、二度とこのような思いをさせることはありません」と謝られたのです。立派な方でした。
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