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Front Interview
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第3話 第4話
Vol.023 市民バンク代表 片岡勝第2話 死線
コラム(2) パーソナル・データ(2)
人と向き合うこと
 三菱信託銀行在籍時代、赤間義洋頭取は僕にとって思い出深い方です。信託銀行業界でも名の残る頭取でした。ある日、僕を呼んで「片岡君は市川房枝さんを担ぎ出して選挙活動をしたり、市民運動もやられている。当行は水俣のチッソの準メインバンクだが、もしうちが資金を引き上げれば、チッソは倒産するかもしれない。チッソは水俣病を引き起こした元凶であり、倫理的に手を引くべきとの世間や市民運動の声もある。片岡君は組合の委員長としてどうお考えですか」と尋ねられました。
 赤間頭取もかつて組合の委員長を経験された方でしたから、僕がもし「撤退すべし」と答えたら、本当に資金を引き上げそうな勢いでした。じっくりと考えて、僕が出した答えは「やはり準メインバンクとしてチッソを資金的に支援し、企業体として存続させ、水俣病の被害者を救済するべきでしょう」というものでした。赤間頭取は真剣に悩んていたのでしょう。誠実な方でしたから。その後、赤間さんが会長を辞する時に、呼ばれました。僕は理由がわからなかったので、最初は組合を懐柔するつもりか、くらいの気合いで会いにいったのです。当時は血気盛んでしたからね。ところが、「片岡君、後を頼む」とおっしゃるのです。僕が頭取を引き継ぐわけありませんから、その時は言葉の真意をくみ取ることはできませんでした。広い役員室に一人、淋しそうにされていました。あの時の光景は忘れられません。しかし、今思うと、僕が話す言葉や評価に計算がないことをわかっていらして、信用してくれていたのでしょうね。
 今この歳になったから理解できるのですが、「自分は辞めるつもりだけれど、あとは大丈夫だろか。君はどう思うか」と、率直な意見を聞きたかったのでしょう。でも、僕はガードを張ってしまって、心を開けませんでした。チッソの時のように率直な意見を言うべきだったのです。一人の人間の生き方に対して、ちゃんと向き合って応えられなかったというのは、忸怩たる思いがあります。生きるって、本当はそういうことにちゃんと応えていくことなのです。反省点です。

脱社会
 本社の中でほとんどの部署を経験し尽くして、そろそろ行くところがなくなり、あとは頭取以外ないな、とうそぶいていたら、次は管理職、という話が風の便りで伝わってきました。管理職になれば、当然、管理をしなければならない。それが嫌で、すぐに辞表を出しました。すると、当時の頭取と副頭取が会いたいと。組合の委員長というものは、内部のいろいろなことを知っていますから、守秘義務があります。その確認の意味もあったのでしょうが、「お辞めになるのですか?」と訊かれたので、半ば冗談に「今すぐ頭取に、というならやるのですがね」と答えました。そんな感じで明るく辞めました。仕事はきちんとやっていましたが、組合活動をしたり、選挙の応援活動をしたり、いろいろと好き放題やらせてもらいましたから。15年もよく続けさせてもらったと思います。
 銀行を辞めた途端、スケジュール帳が真っ白になりました。それまでは「2時に会おう」といえば、夜中の2時でしたし、睡眠時間3、4時間という日が、会社勤めの15年間、ずっと続いていました。サラリーマンとしてしっかり働いて、組合活動をして、その後、政治活動で社会市民連合の市民委員長をやっていましたから。しかも、どれもこれも期待されているポジションで、そのいずれもきっちりとまっとうしようと思ったら、睡眠時間はおのずと減ります。スケジュール帳は、毎日予定が詰まっていて真っ黒でした。ところが仕事を辞めた途端、それが未来永劫、真っ白になってしまった。

放浪から流浪へ
 辞める時は、みんな頑張れよといってくれて、名刺も3千枚くらいありました。でも辞めたら、誰も電話をしてきません。みんな、片岡はこれから何かを始めるのだから見守ろうと、気遣ってくれていたのでしょうね。しばらくすると、昼と夜の生活が逆転し始めました。時間がいっぱいあるので、徹夜して本を読みあかす生活が続くうちに、とうとう昼夜逆転したのです。それが続くうちに身体を壊し、食事ができなくなって、やがてトイレまで面倒になってきました。鬱のような状態になり、気力もなくなって、人生が面倒くさくなり始めたのです。
 そこで、そこから抜け出そうと最後の賭けというような感じで、バッグパッカーとして海外へ脱出したわけです。世界中を放浪しました。何度も旅先で倒れて、これでもう終わりかという目にずいぶんと遭いました。最初に行ったのは、アジアだったと思います。よく覚えていないのです。まあ、どこでもよかったのでしょう。でも暑い国でした。たぶんタイ。そこからバスで北に上がってチェンマイ、そしてコンケンに抜けたあたりで倒れたのを覚えています。
 中国人らしき人を見つけて漢字で「宿」と書いても通じなくて途方に暮れていると、見かねた農家の主婦が彼女の家に泊めてくれました。寝床は堅い板の上でしたが、とにかくありがたかったですね。その時に夕食に出してくれたのが、鶏料理。彼らにしてみたら、ご馳走です。僕を客として扱ってくれたわけで、最高のおもてなしで。でも、翌日からは、唐辛子と水と米だけ。他に何もおかずがないのです。体調も良くないし、水を飲むと下痢しそうで、まったく喉を通りませんでした。




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