その当時、いちばん給料が高かった企業が、東洋興業とマツダでした。マツダは、まだ広島の中小の自動車メーカーで、大学の就職課の人もよく知らないくらいでした。当時は、トヨタ自販と常磐炭鉱に受かった人がいたのですが、その人は躊躇なく景気のいい常磐炭鉱に行きました。でも後に、常磐炭鉱は閉山し、結局、その人はその後、トヨタ自販へ再就職しました。当時,自動車産業というのは、なかなか行く人間がいない、そういう業種だったのです。
経済の成長期は、それくらい産業構造の変化が著しい時代でもありました。私の先輩に現在の高野連会長の脇村春夫さんがいますが、彼は、東洋紡に入社しました。当時の東洋紡は、日本で資本金最大の会社。八幡製鉄よりも大きかったのです。当時のエリートと呼ばれる人はみんな、繊維産業や炭坑,映画会社に入ったものです。総合商社などは行く人がいなくて、後は銀行に就職するか、役人になるか。そういう時代でした。
私と同じ東大の同期からに国民金融公庫には10名受かりましたが、実際に行ったのは7名。最初の年で2名辞め、それから2年程の間に、さらに2名辞めて、結局、3名が残りました。昭和30年代半ばから高度成長期に入り、外資系の企業が進出してきて、日本IBMや石油会社などに転職していったためです。本来2年で辞めるつもりだった国民金融公庫ですが、家庭の事情もあり、また公庫も放してくれなかったので、なかなか辞めることができませんでした。
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