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Front Interview
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Vol.026 法政大学名誉教授 法政大学学事顧問 清成忠男第1話 気概
コラム(1)
産業構造激変期
 その当時、いちばん給料が高かった企業が、東洋興業とマツダでした。マツダは、まだ広島の中小の自動車メーカーで、大学の就職課の人もよく知らないくらいでした。当時は、トヨタ自販と常磐炭鉱に受かった人がいたのですが、その人は躊躇なく景気のいい常磐炭鉱に行きました。でも後に、常磐炭鉱は閉山し、結局、その人はその後、トヨタ自販へ再就職しました。当時,自動車産業というのは、なかなか行く人間がいない、そういう業種だったのです。
 経済の成長期は、それくらい産業構造の変化が著しい時代でもありました。私の先輩に現在の高野連会長の脇村春夫さんがいますが、彼は、東洋紡に入社しました。当時の東洋紡は、日本で資本金最大の会社。八幡製鉄よりも大きかったのです。当時のエリートと呼ばれる人はみんな、繊維産業や炭坑,映画会社に入ったものです。総合商社などは行く人がいなくて、後は銀行に就職するか、役人になるか。そういう時代でした。
 私と同じ東大の同期からに国民金融公庫には10名受かりましたが、実際に行ったのは7名。最初の年で2名辞め、それから2年程の間に、さらに2名辞めて、結局、3名が残りました。昭和30年代半ばから高度成長期に入り、外資系の企業が進出してきて、日本IBMや石油会社などに転職していったためです。本来2年で辞めるつもりだった国民金融公庫ですが、家庭の事情もあり、また公庫も放してくれなかったので、なかなか辞めることができませんでした。

組織に序列なし
 国民金融公庫では、主に業務関係の企画や立案に携わりました。当時はすべてそろばん計算でしたが、そこにバロウズや日本NCRの計算機械が導入されました。私たちが手計算する際も、今のような電卓はまだなくて、手回しの計算機というものを使っていました。そこにIBMのコンピュータが登場したのです。コピー機も、湿式のリコピーからゼロックスが出した乾式のものに変わるなど、事務処理の転換期で革命的な変化でした。
 そういう事務機器の導入選定も、大学を出たての私たちに任されていました。そういう転換期だと、上の世代は新しいことに対応できないので、すべて新卒に任せるわけです。4、5名の若手で事務機器の導入から組織の改編、その背後で経営学も勉強するというようなことをしていました。大きな変化の時代で、組織の中に序列がなく、そこが今とまったく異なるところでした。何でもやらせてもらえたし、仕事が面白いから、若手はどんどん伸びました。
 そこに日本に進出してきた外資系がスカウトに来るわけです。上司は手放したくないから、ポストを与えて引き留めにかかります。政府系の機関でしたが、採用は大卒一本なので、省庁のようにキャリア・ノンキャリアがあるわけではありません。難しいポストにつかせて、チャンスを与え、それがクリアできれば合格で、自らのキャリアとなっていくのです。東大出でも、与えられたポストで失敗すれば、敗者復活はありません。ある意味、中央官庁よりも厳しい世界でした。



(4月9日更新 第2話「調査」へつづく)




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