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Front Interview
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Vol.031 株式会社ガバナンスビジョンズ代表取締役社長 小林久仁子第1話 異端
コラム(1) パーソナル・データ(1)
社会に出て働きたい
 子どもの頃海外を舞台にした仕事をしてみたいと漠然と思っていました。そのためにフランス語やスペイン語を習ったりしていたわけです。大学1年生のときに、初めてフランス、スペイン、チェコスロバキア、ソビエトを1人で1カ月半くらい旅行したことがあります。ソビエトでは見張り役のようなガイドが付いて、ここは写真禁止、食事の時間は何時からと、常に監視されているようで大変でした。その頃は外貨の持ち出し制限があったわけですが、トランクの奥に現金を隠して少し多めに持っていったことを思い出します。
 私が大学を卒業した1977年頃は、四大卒の女子学生にとって就職難の時代でした。当時は大学に求人募集があっても、女子学生の場合は英文科や教養学部といった学部指定がありました。要するに法学部や経済学部の女子学生は最初から採用しないということです。そういう時代でしたから、私の場合は試験を受ける企業が非常に少なかったわけです。それでも東京銀行、日本不動産銀行、日産自動車と3社を受けました。
 私の家庭は比較的裕福なほうだったのですが、そのまま家事見習いをやる気は毛頭ありませんでした。それは生活のためではなく、働くことによって世の中の流れ、社会の仕組みをもっとよく知り社会に貢献したいと思ったからです。最終的に仕事の内容や諸条件を考えて、東京銀行を選びました。

東京銀行入行
 東京銀行は銀行業界の中では比較的リベラルな行風で、そこに魅力を感じている部分はありました。当時から女性社員の海外派遣制度もありましたし、銀行の中でもいち早く女性の課長職を取り入れた会社でした。もちろん、男性行員とまったく同じ仕事をするわけではありませんでしたが、かなり進歩的な銀行だったと思います。勤務した部署は本店営業部の外国送金課でしたが、実際に入行して仕事をしていくと毎日が疑問の連続でした。それをことあるごとに先輩社員に質問するものですから、疎んじられることが多かったと思います。それでも定期預金はなぜ譲渡ができないのかと質問したあとに、譲渡性預金というものができたりして、自分の疑問は的外れではなかったことを実感しました。
 入行2年目になると「このままでは東京銀行は生き残れないから野村證券と合併したらどうですか」と直属の部長に進言するなど、大胆な言動もしていましたから、銀行の中では「変わり者」と呼ばれるようになっていました。東京銀行が危ないと思った根拠は、アルゼンチンやポーランドなどに山ほど円借款をやっていて、まったく返金されていない状態が続いていたからです。お金が返ってこないのに、さらに貸し付ける。これでは銀行がつぶれてしまうのではないかと疑問を感じただけですが。
 東京銀行には4年ほど勤めましたが、毎日が同じことの繰り返しで仕事に興味を持てなくなってきました。男性行員の方は1年ごとにどんどん部署が変わって行きます。最初は預金や送金業務を担当し、次に融資の仕事、その後に海外へ出て行くというステップが決まっていました。ところが、女性行員は何年経っても同じ仕事ばかり。各部署の事務職の要になる女性は多かったのですが、私はそれでは満足できませんでした。それで行内結婚を期に、日本の企業より仕事上の男女差別の少ない外資系企業に魅力を感じ、東京銀行を飛び出そうと考えました。

(9月10日更新 第2話「疑問」へつづく)



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