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Vol.031 株式会社ガバナンスビジョンズ代表取締役社長 小林久仁子第3話 ガバナンス
コラム(3) パーソナル・データ(3)
“アパレル業界で起業”
 バブル社会に嫌気がさした私は、1988年から貿易会社に就職し、北京駐在員として赴任しました。北京には1年半ほどいて、その後は金融業でイギリス駐在員として働きました。自分の気持ちをずいぶんとリフレッシュすることができました。外資系ファンド企業が日本から撤退し始めた1992年に、私はそれらの会社と入れ替わるように帰国しました。
 その後、私はフランスで縫製した洋服を輸入して、日本で販売するアパレルの貿易会社を起業しました。しかし、アパレル業界の古い体質には驚きました。小売り制度、支払い方法ともにロジカルな取り決めがあるわけではなくではなく、売れたらお支払いしますといった約束事の世界なのです。これでは商売として成り立つわけがないと思いました。そのうち大手デパートにも商品を卸すまでになりました。ところが、商品の掛け率は先方が勝手に決めてしまうのです。納品した商品が売れなければ、それをまた引き上げに行かなければならないのです。フランスの工場から商品を輸入するときに品質の細かい検査があったり、関税の割り当てがどうこういわれたりと、いろいろなことに振り回されました。
 会社勤めはあまり長続きしなかったわけですが、自分の会社は違いました。本当にやらなくてはいけないこと、乗り越えなければいけない問題があるときは、簡単に音を上げないものです。意外としぶとく、辛抱強い自分を再認識しました。結果的にはケガの軽いうちに引き上げればよかったのですが、なぜか異常に頑張ってしまって、気が付いたら8年の歳月が流れていました。

派遣社員に転ずる
 大手デパートと取り引きするようになっても、会社の業績はあまりかんばしくはありませんでした。そのうちに景気も悪くなり、消費税も5%になって、会社を経営する上でいろいろな悪条件が重なって、会社を解散したときには資金がほとんど底をついている状態でした。1人娘はまだ小学生でしたから、とにかく働かなくてはなりませんでした。とりあえず派遣会社に登録することにしました。
 派遣会社の担当者からは「10年近くも金融の世界から離れていたら、昔の知識やキャリアはほんど役には立ちませんね」といわれましたが、実際に派遣社員として働いてみると、そのようなことはありませんでした。確かに新しい商品も出ていましたが、その内容がまったくわからないということもなく、自分の知識がまだまだ使えると思ったものです。そのときに改めて「やはり自分は金融の人、金融の世界が大好きなのだ」と実感したのです。
 派遣社員として銀行に勤務して驚いたのは、派遣というだけで上司が横柄な態度で接することです。明らかに私より語学力に劣る上司が英文のことに文句をつけてきたり、書類の止め方がなっていないと注意をしてきたり、それは差別的立場からの小言ばかりでした。「君は能力のない派遣社員なのだから、あれこれいわずに黙ってなさい」と言わんばかりです。今でこそ派遣社員の待遇は社会問題になって、いろいろと改善されてきましたが、2000年頃は派遣というだけで不当な差別を受けることは日常茶飯事でした。



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