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Vol.033 リッキービジネスソリューション株式会社 代表取締役 澁谷耕一第1話 退職
コラム(1) パーソナル・データ(1)
家庭に入る
 社名の「リッキー」という名前は、妻の旧姓が「力野(りきの)」と言いまして、彼女のニックネームであるリッキーから付けたものです。大学時代に付き合い始めた時から、結婚後もずっと妻のことをリッキーと呼んでいました。たまたま日本興業銀行(以下、興銀)の利付き金融債の商品名(リッキー)と同じになり、興銀の先輩からは「興銀に対する思い入れがすごくあるのだね」と言われることもあります。
 起業の決断は7年半前に妻が病気で亡くなったことに関係しています。そのとき、高校生と中学生の息子、小学校3年生の娘と3人の子どもがいました。
 特に、娘のことを思うと、このまま銀行勤めをしていたら、帰宅する時間も遅く、寂しい思いをさせてしまうことが気がかりでした。それで会社か家庭か、どちらを選ぶのかとなったわけです。そして、家庭を取ることにしました。女性の方が結婚して、子どもができて、退職していくというのは、こういう感じなのかと思いました。
 仕事より家族を取るという選択に「それはリスクが大きい」と反対する職場の先輩もいました。当時は興銀に勤務していれば、安定した生活と収入が得られるというのです。子どもの面倒を見られるように、早く帰宅できる部署への配置転換も考えるとも言われました。しかし、思い切って銀行を退職し、家庭を優先することにしました。

子育てと起業と
 家庭を優先するといっても、何か手だてがあって辞めたわけではなかったのです。しかし、生活のために働かなくてはなりません。そこで自宅にいながらできる仕事がないものかと考えたわけです。確かに家族の問題が起業のきっかけにはなりましたが、一方では人材派遣大手のパソナの南部靖之社長やソフトバンクの孫正義社長と興銀時代から親しくさせていただいて、バイタリティあふれる起業家に対する憧れも心の中にはありました。
 心のどこかでいつか起業しようという思いはあったのですが、そのきっかけがなかったのです。興銀では入社して、最初は新宿支店に配属され、1983年から1990年までがニューヨーク支店勤務。当時は日本の銀行の絶頂期で、日系企業の米国進出や企業買収の仕事に従事しました。それから本店の企業金融開発部に移り、ここではM&A業務を担当しました。その後、今度は東アジアが活況を呈している時に、香港支店に勤務することになりました。そして、日本に戻ると、企業投資情報部の副部長、アジア営業開発室長に就任しました。
 振り返ると入行から一貫して法人営業の現場を歩いてきました。また、みずほ証券の公開営業部長として出向するなど、面白い部署や今後伸びる部署の仕事を担当した関係で、興銀を辞めるきっかけがなかったわけです。子育てしながら起業することを考えたときに、これまでに培った興銀での経験を活かすことが一番いいだろうと思いました。それで改めて、企業経営者と銀行の関係を自分なりに分析し、経営者や銀行の役に立てる仕事はないものかと考えたのです。




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