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Front Interview
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Vol.027 株式会社ライトレール 代表取締役社長 阿部等第3話 社会を変える
コラム(3) パーソナル・データ(3)
国鉄からJRへ
 1987年に大学院修士2年生を修了しました。その年、国鉄が分割民営化されました。JRが生まれると同時に入社したかったのですが、当時はJRの経営がどうなるか不透明で、むしろうまくいかないだろうという見通しが強く、JR各社の採用はゼロでした。民鉄への就職も若干は考えましたが、スケール感が全然違うので、JRへの就職にこだわりました。
 当時の大学院の指導教官、新谷洋二教授にご相談したところ、「留年して就職浪人したとして、翌年に採用が始まらねば大変だろう。中退してもいいから博士課程への進学を考えなさい」と言われました。それで博士課程への進学を志望しました。20年以上前の話で時効になると思いお話しましたが、中退前提で博士課程の定員を 1人分あてがってもらえたのです。先生には大変感謝しています。
 ただし博士課程は志望すれば自動的に進学できる訳ではありません。先生のご期待に応えねばと、入学試験で問われる進学後の研究計画を、同期の中で誰よりも長く書きました。翌年、JR東日本で技術系の採用が始まりました。そして、予定通り中退して就職しました。

保線部門を希望
 当時のマスコミは、新会社は鉄道事業では収益を上げられず、国鉄時代に展開を抑えられていた関連事業をいかに伸ばすかが重要という論調でした。そして、JR経営陣の発想も同様でした。しかし、私の持論は「世の中はJRになって鉄道や交通のサービス向上を期待している」ですから、相容れるものではありませんでした。
 さて、都市工学科の卒業でJR東日本に入社すると、配属される先は、国鉄時代からある保線か建設工事、そしてJRになって新しく生まれた開発事業の3つになります。新入社員研修後の面接で、どの部門を希望するかを聞かれました。
 開発事業には、はなから興味がありませんでした。建設工事は、鉄道と交差する道路や河川等、部外からの委託工事がメインで、自分の志望とは違いました。保線部門は、鉄道の基本であり、将来、鉄道を本気で便利にしようと会社の経営方針や社会の考え方が変わった時には絶対に重要になります。その時に備えて基礎をしっかり身に付けておこうと、保線部門を希望しました。

粘り強い説得
 入社2年目の1989年に、東京圏運行本部保線課に配属されました。担当業務は「運転」でした。保線の仕事は、「間合」と称する終列車と初列車の間に行うのが基本です。保線部門は、作業効率がアップするよう、運転部門にダイヤ調整を依頼します。しかし、運転部門は、保線のために終列車を早めたり、初列車を遅らしたりすることは避けたいので、せめぎ合いになります。
 私は、ダイヤへの影響を最小限にして間合を確保できるよう、フランス国鉄等で行われていた単線運転方式を提案しました。宇都宮駅構内に老朽化した分岐器があったのですが、通常ダイヤの間合では交換工事ができませんでした。しかし、早朝深夜に単線運転をすれば、通常の倍近い4時間の間合を取ることができそうでした。ただ、この方法だと、半数の列車は通常と逆方向に走行し、信号機や踏切が正常に作動しません。そこで、現地に人を配置して安全を確保します。ミスがあったら大事故になると反対されましたが、粘り強く説得して実行が決りました。
 ところが、東京と北海道を結ぶ貨物列車1本がどうしてもダイヤに収まりませんでした。意地でも列車を運休させたくなかったので、東北本線でなく常磐線経由にできるよう、上司と一緒に仙台に赴き、仙台地区の運転部門や、貨物会社の仙台支店の方と交渉し、そのように決定できました。



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