僕が20代そこそこでなぜアパレルメーカーを起業できたかというと、小さな資金で始めやすい環境にあったからでしょう。まだ大企業が席捲していない原宿という場所に恵まれたこともあります。洋服作りで一番コストがかかるのが生地代で、次が縫製工賃です。縫製工賃はわりとすぐに支払うことになっていたのですが、生地は生地屋さんが90日、120日の手形で売ってくれました。洋服を作って早く納品して現金を回収すれば生地代も支払えて、資金がうまく回転していくわけです。
あとは海外の最新情報を積極的に発信するメディアが登場してきたことも大きな力となりました。平凡出版(現マガジンハウス)などが、ヨーロッパや米国では、どんなトレンドが話題になっているのかなどをいち早く紹介するカルチャーマガジンを創刊しました。それまでナイキ(NIKE)のことをニケとか呼んでいた人たちもいたくらい、海外の情報についてはのどかな時代でしたから。
30歳くらいになると、東レ、テイジン、旭化成といった当時の大手合繊メーカーと仕事をするようになりました。面白いことに同じ生地でもプリントの柄によって、売れる、売れないの差がすごく大きくでてくるのです。サクランボやペイズリーの柄はあまり売れなかったのですが、その理由は誰もわからないんです。だから、非常にギャンブル性が高くて、そのあたりの勘はずいぶんと研ぎ澄まされました。それでテキスタイルの仕事が面白くなって、40歳くらいまでテキスタイルデザイナーを続けました。
|