私は小学校低学年の頃、「落ち着きがない」という理由で、よく母から座禅を組めといわれました。確かにおっちょこちょいで、幼稚園時代には、無謀というか、自転車にも乗れないのに、坂の上から走り降りてドブに落ちたこともありました。そんなことでしたから、母にはよく「白い壁に向かって座って10数えなさい」といわれて、 「うるさいな」と思いながらも座っていたものでした。決して厳しい母ではありませんでしたが、私は3人兄姉の末っ子で長男でしたし、うちの系統に男の子が少なかったことで期待されていたとは思います。もちろん、それを表立って言われた記憶はありませんが、どこかでそういう重圧を感じていたと思います。
生まれたのは鎌倉ですが、小学校1年の時に、昔の高樹町、今の南青山7丁目に移って、青南小学校、青山中学校、日比谷高校、東大というコースを進みました。のほほんとした性格で、母が私の進路をどうするかで、ある方に相談したら、絶対に公立にしなさい、私立には入れない方がいいといわれ、小学校から中学・高校と、すべて地元の学校に進みました。当時、青山中学である程度の成績を取っていれば、日比谷高校にいくものだという感じでしたし、日比谷高校に行けば、次は何となく東大に行くもの、という雰囲気だったので、ほとんど何の疑いもなく敷かれたレールを進みました。
父の寿男はエンジニアで、養子として苦労したこともあって、とても忍耐強い人でした。祖父も技術者でしたから、技術者としての誇りは強かったと思います。そういう環境にいながら、なぜ私のような銀行員ができてしまったのかは不思議ですが、高校時代に、物理で0点を採ってしまったことが文系に進んだ遠因のように思います。文系なら法律か経済に進みたいと思っていましたが、自分の志向として何かに縛られるのがあまり好きではなかったので、経済学部に進みました。
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