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Vol.029 株式会社アールテック・ウエノ取締役 岩崎俊男第3話 天命
コラム(3) パーソナル・データ(3)
「リスクを取る」というメカニズム
 ダイヤモンドキャピタルも設立から最初の10年間くらいは、ベンチャーキャピタル魂といますか、そういう意識を強く持った投資活動を行っていました。当時の最大の成功例は、東京応化工業株式会社というアーリーステージの会社への投資です。これが大きな資産になっているところがありました。でも、そういうふうにリスクを取って投資するというスタンスが、だんだん薄れていったのですね。
 というのも、銀行内のローテーションで回っている組織というのは、パフォーマンスをどう見るか、という場面になると、一般事業会社については、どうしてもPL(損益計算書)だけで判断することになります。そうなると、どれだけ過去の含み益を取り崩したかということはあまり見なくなって、期間収益だけに注視するようになっていくのです。そうなれば、どうしても償却がすぐに起きるような投資はちょっと、という思考になっていきます。あるいは、今あるものを守らなければならない、という考えになっていくのもしれませんが、いずれにしても「リスクを取る」というメカニズムが働かなくなってくるのです。
 今の日本もそういう状況に近いのかもしれませんが、そうした思考に陥ると、茹で蛙ではありませんが、かえってリスクを取る結果になってしまうことに気がつかなくなります。

ダイヤモンドキャピタルへ出向
 1993年からの第3次ベンチャーブームの波には完全に乗り遅れていたという気がします。日本の、特に金融機関系のベンチャーキャピタルというのは、発足当初は違ったのかもしれませんが、1990年以降の失われた10数年の中で、次第に保守的になっていきました。しかも決定的だったのは、第3次ブームの主役だったインターネットいう文化がわからなかったこと、これがいちばん大きかったでしょうね。
 ダイヤモンドキャピタルの場合、ボードに、三菱化学、東京海上、明治生命といった事業会社の役員の方が入っておられ、事業面での助言を得ることができた点、また会社の紹介で株主名簿を示すと、ここにいけば、三菱グループへの門戸が開かれるのだというような期待感が持てていた点は恵まれていたと思います。
 その中で、一つの出口、改善策として見えてきたのは、三菱系企業の研究部門から出てくるスピンオフに、どういう形で協力していくかということでした。しかし、三菱電機と三菱化学で数件の事例がありましたが、全体としては非常に数が少なかったのです。そんなにいい事業なら、外に出さない方がいいという発想が強かったからです。今の時代のように終身雇用制の維持が困難となり、従業員の方にも独立志向が潮流として充分に満ちていれば、もっと状況は変わっていたかもしれませんが、大企業に身を置いている方が、敢えてその殻を破って、自分でリスクを取りって独立するよりも安泰ですから、スピンアウトの事例は、非常に少なかったのですね。 ただ、1999年に専務取締役としてダイヤモンドキャピタルに出向し、1年後に転籍したのですが、それは、ちょうどドットコムバブルの最中で、何か世の中の潮目が変わってきているな、という感覚は非常にありました。



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