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Vol.032 株式会社船井本社 代表取締役会長 船井幸雄第3話 愛

“難しい理論をやさしく表現する”
 財団法人安全協会に就職し、産業心理や産業能率の研究を中心に、職場の安全管理や工程管理など新しい知識を体得する一方で、安全協会が発行する「安全衛生」と「人間と経営」という2冊の機関誌の編集長を兼務しました。新聞記者志望だった私にとって、この仕事はとても楽しかった思い出があります。この雑誌編集を通して、多くの読者の方に愛読していただくために「難しい理論をやさしく表現する」ことの必要性を痛感しました。このときの経験があったから文章表現も上手になり、後の執筆活動や雑誌編集の仕事にも大変役立ったように感じています。
 安全協会を退職後、仲間と宣伝販売中心の経営コンサルタント会社を設立しました。私はまだ20歳代後半、昭和30年代半ばのことです。当時は経営の知識、情報、アイデア、ノウハウなどに金銭を投資する時代ではなく、まだコンサルタント業という仕事が世の中に認知されていませんので、コンサルティング料も破格の安さでした。要するに時流に乗らない商売、会社を興すには時機尚早だったわけです。
 10人ほどの社員に給料を支払うと、自分の取り分がない状況が続きました。それで会社の運転資金を作るために、会社の就業後や休日に他の会社でアルバイトをしました。その当時にお世話になったのが小売業や卸売業の方々です。のちに中小企業を中心にしたコンサルティングが得意になったのは、当時のアルバイト業で知り合った方々から小売業や卸売業のシステムなどを学んだからです。人間、何が幸いするかわからないものです。

生きることがすべて学び
 私は30歳頃から「死んだらどうなるのか?」ということについての研究を始めていました。その結果、40歳頃には「人は、それぞれに使命や役割を持ってこの地球に生まれてくる」ということを自分なりに理解し、納得するようになりました。私の本質である霊魂は、この激動の人生を通して学ぶべきことがあったから、船井幸雄という人生を選んでやってきたことを悟りました。つまり、人生の楽しいこと、辛いことを通して、この地上で生きることがすべて学びなのです。
 ですから、会社が火の車という中、父親が癌で逝去し、実家に戻って仕事の合間に農作業をする生活を送ったことも、それから間もなくして先妻が過労で倒れ、私と2歳になる息子を残して、そのまま帰らぬ人になったことも、すべて私の人生だと考えるようになりました。後に多くのジャーナリストの方たちが「不遇時代」と表現したこの時期にピリオドを打つことになった契機は、現在の妻との再婚でした。これも私の人生で決められていたことだと思い、すべてを清算して、一から出直す決意を固め、昭和39年に日本マネジメント協会に経営コンサルタントとして入社しました。
 日本マネジメント協会でトップ・コンサルタントと呼ばれるようになっても、失敗する部分はありました。私が懸命に戦略アドバイスした小売業者の中に、成功するところと失敗するところが出てきたのです。私は徹底的に調査し、会社経営の成功は99%までトップの資質で決まることを発見しました。「プラス発想。勉強好き。素直」がトップの条件で、現在の船井流経営法の中核になっています。



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